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信願交際。

〔題意〕
本願成就文における信心と願生、本願の信楽と欲生との関係を窺い、信楽が機受を的示するものであって、欲生は信楽の義別なることを明らかにする。
〔出拠〕
本願成就文に「聞其名号.信心歓喜.乃至一念.至心回向.願生彼国.」とある。
〔釈名〕
「信」は名号・仏勅に対する無疑信順の義で、本願成就文の「信心歓喜」であり、困願の「信楽」のことである。
「願」は浄土に対する要期の義で、本願成就文の「願生彼国」にあたり、困願の「欲生我国」のことである。「交際」とは関係の意である。
〔義相」
信楽は「聞其名号信心歓喜」とあるごとく、名号に対する機受を的示するもので、名号を信受し仏勅に帰順する心相をあらわす。行文類の六字釈に帰命の帰を釈して「帰悦也、帰税也」とあるのがその意である。
欲生・願生は当来(未現前)の浄土に往生する要望期待(要期)の意である。すなわち方便両願の欲生が不定希求の欲願であるのに対し、今は信決定の上の欲生であるから決定要期の義であって、「作得生想」といわれる。
この欲生は名号を全領した心相すなわち信楽のほかに別に発起するものではなく、信楽に具する義である。
なぜならば、名号は往生浄土の業困であり、本願招喚の勅命は浄土に来生せしめんという勅命であるから、この名号勅命に信順する信楽には、当然当来の浄土往生に対する安堵の義を具している。故に信文類には、「以其実信楽為欲生体也。」と釈されるのである。このように、信と願との関係は、信が体であり、欲生・願生はその中に具する義であって、願を以て主とすることはない。何となれば、現前の名号勅命に信順することを以て機受の心相を定めるからである。
なお、往生浄土門の信は聖道門の信と異なって、その義別として欲生・願生を具する信であるから、浄土門(信楽)をさして願生と心という場合がある。「浄土論」の題目に「無量寿経有婆提舎願生偈」とある「願生」のごときは、信の異名として願生の語をもちいられてのであって、三心の中の欲生を指すのではない。また『散善義』の二河譬に「能生清浄願往生心」とあるごときもその例で、宗祖は『二巻鈔』にこれを「如来回向之信楽也」と釈されてある。本願成就文の「願生彼国」も、「至心に回向したまへり」の前にある「信心歓喜」を承げて、次の「即得往生」に接するところから、信心歓喜のことを出したものと見られるのである。
また、信文類の別序に、「信楽を獲得することは如来選択の願心より発起す」といい、善導讃「信は願より生ずれば」等といわれるごとぎ願は、成就文にいう願生の願ではなく、衆生を往生せしめたいという仏の願であるから、願を仏に属し、信を衆生に約して、仏の願心によりて信楽を獲得する旨を示されるのである。
〔結び〕
真宗にあっては、信(信楽)を以て機受を定め、願(欲生)はその信のところに必然に具する義とする。したがって、願を以て機受のすわりとはしない。また、真宗の信心のことを願生心という場合があるが、それは第三の欲生心を指すのではなく、三心即一の信楽の異名として示されるのである。