トップページへ に戻る
勧学寮トップページへ


即得往生

〔題意〕
本願成就文の「即得往生」の釈意を窺い、信一念の即時に正定衆に住するという、信益同時の宗義を現らかにする。
〔出拠〕
本願成就文に、「即得往生往不退転」とある。
〔釈名〕
これに、当釈と宗釈の両義がある。
成就文の「即理得往生」は因願の「若不生者」の述成であるから、当来の益とみるのが経文当分の解釈(当釈)である。
その場合には、「往生」は「捨此往彼運華化生」の義であって、「即」は異時期の義、「住不退転」は彼土の益となる。すなわち、第十八願の行者が命終時に浄土に往生して不退転の位に住することとなるのである。
しかるに、宗祖は宗義をあらわす釈(宗釈)を施して、これを現生の益とされる。この場合には、「即」は同時即であって、信一念同時に浄土に往生すぺき身に定まることを「即得往生住不退転」の義とされるのである。今はこの教を窺う。
〔義相〕
宗祖が現益とされるについて、また両様の釈がある。
一つは、即得往生の四字ともに現生に約して、「往生」を現生正定聚・現生不退とし、「即得」は信一念同時に住する、入る、つきさだまる、の義とする。『二巻鈔』に、本願を信受するは、前念命終なり。「すなはち正定聚の数に入る」(論註・上意)と。即得往生は、後念即生なり。「即のとき必定に入る」(易行品)と。また「必定の菩薩と名づくるなり」(地相品・意)と。」と示され、『最要鈔』に、善悪の生処をさだむることは心命のつくるときなり、身命のつくるときにあらず。とあるごときがこれである。
二つに、「往生」は当来の浄土往生(捨此往彼 蓮華化生)とし、「即得」を信一念同時に業因が決定する義とされる。
行文類の六字釈に、「『経』(大経)には「即得」といへり、『釈』(易行品)には「必定」といへり。「即」の言は願力を聞くによりて報土の真因決定する時剋の極促を光闡するなり。」とあり、
『浄土真要鈔』(存覚、)に、
「一念帰命の解了たつとき往生やがてさだまるとなり。うるといふはさだまるこゝろなり。」というごときがこれである。
いずれにしても、宗祖は「即得往生」を信一念同時に正定聚(往生すべき身)につきさだまる現益とされるのである。この釈によって、法体の独用により、機の微作をもからず摂取せられるという義が、いよいよ明らかとなる。
このように、正定聚を現益とされる理由は、真宗は一因一果の法義であって、名号は悲智円具の法体であるから、これを領受する信の端的に往因円満し、当来には往生の即時に究竟の仏果を得ることになる。
したがって、成仏以前の正定聚不退を信一念の即時に得る現益とされるのである。
また正定聚不退を現益と見られる文の拠り処としては、『大経』流通分や『小経』に示された聞経不退の文、さらには「易行品』の「即時入必定」、『論註』眷属功徳の釈、『玄義分』釈名門の聖衆荘厳の釈、などを挙げることができる。
なお、宗祖にも住不退転を彼土の益と見られる義がある。証文類の還相釈に引かれてある『論註』の五果門の近門・大会衆門のごときは彼土における正定聚であり、
「一念多念文意」にも、
かのくにの清浄安楽なるをきゝて、剋念して、むまれむとねがふひとと、またすでに往生をえたるひとも、すなわち正定聚にいるなり。と示されている。
したがって、正定聚不退には、現益と当益の両義が存することになる。これを現益とされるのは、仏因円満して報土に往生すぺき身に定まったことをいうのであって、正定聚の菩薩としての位相が顕現することではない。
またこれを当益とされる場合には、仏果を得た上の広門示現の相と見られるのである。
〔結び〕
宗祖は「即得往生住不退転」を釈して、名号を聞信する一念同時に正定聚不退に定まることとし、もって、法体の独用、機の徴作をもからず速やかに摂取せられることなりとされる。
また、これを当益とする場合は、住不退転を果後の広門示現相とするのである。