トップページへ に戻る
勧学寮トップページへ


六字釈義

〔題意〕
名号六字の義を窺い、名号は願行・悲智を円具して、よく衆生を往生成仏せしむる行体なることを明らかにする。
〔出拠〕
「玄義分」「今此の観経の中の十声の称佛は、即ち十願・十行有りて具足す。云何が具足する。南無と言ふは即ち是帰命なり、亦是発願回向の義なり。阿弥陀佛と言ふは即ち是其の行なり。斯の義を以ての故に必ず往生を得。」
「行文類」の六字釈に「しかれば南無の言は帰命なり。帰の言は、至なり、また帰説(よりたのむ)なり、説の字は、悦の音なり。また帰説(よりかかるなり)なり、説の字は、税の音なり。悦税二つの音は告なり、述なり、人の意を宣述するなり。命の言は、業なり、招引なり、使なり、教なり、道なり、信なり、計なり、召なり。ここをもつて帰命は本願招喚(まねくよばう) の勅命なり。発願回向といふは、如来すでに発願して衆生の行を回施したまふの心なり。即是其行といふは、すなはち選択本願これなり。必得往生といふは、不退の位に至ることを獲ることを彰すなり。」
「尊号真像銘文」に「善導和尚云 「言南無者 即是帰命 亦是発願回向之義 言阿弥陀仏者 即是其行 以斯義故必得往生」(玄義分)文 「言南無者」といふは、すなはち帰命と申すみことばなり、帰命はすなはち釈迦・弥陀の二尊の勅命にしたがひて召しにかなふと申すことばなり、このゆゑに「即是帰命」とのたまへり。「亦是発願回向之義」といふは、二尊の召しにしたがうて安楽浄土に生れんとねがふこころなりとのたまへるなり。「言阿弥陀仏者」と申すは、「即是其行」となり、即是其行はこれすなはち法蔵菩薩の選択本願なりとしるべしとなり、安養浄土の正定の業因なりとのたまへるこころなり。」「執持鈔」
「そもそも南無は帰命、帰命のこころは往生のためなれば、またこれ発願なり。このこころあまねく万行万善をして浄土の業因となせば、また回向の義あり。この能帰の心、所帰の仏智に相応するとき、かの仏の因位の万行・果地の万徳、ことごとくに名号のなかに摂在して、十方衆生の往生の行体となれば、「阿弥陀仏即是其行」(玄義分)と釈したまへり。」とあり。御文章四帖目十通・四帖目十四通などある。
〔釈名〕
「六字」とは南無阿弥陀仏のことで、今はこの名号に願行具足せる義を釈する。
〔義相〕
摂論家の人々が、『観経』下々品の十声の称名は唯願無行であって、往生別時意であるというのに対し、善導大師は、この称名には願行を具足しているから、順次の往生を得るのである旨を明らかにされた。すなわち、「南无」というのは帰命であるが、また発願回向の義もあり、「阿弥陀仏」というのはその行である。このように所称の名号に願行を具足しているから必ず往生を得るという。
宗祖はこの善導の釈を承けて、行文類には、名号六字の本質を「帰命」と「発願回向」と「即是其行」の三義で解釈され、三義をいずれも仏に約して、「発願回向」は能回の悲心(願)、「即是其行」は所回の智徳(行)とし、「帰命」をその回施の相状(本願招喚の勅命)とされる。そしてかかる悲智円具の名号を聞信する故、即時に仏因円満して正定聚に入る(「必得往生」の釈)と示されたのである。
『銘文』にあっては、六字の三義を衆生に約して、「帰命」を機受の心相、「発願回向」をその義別とし、「即是其行」を体徳とされている。
その他、『執持鈔』、『御文章』などそれぞれ釈相は異なるが、いずれも名号六字に衆生を往生成仏せしめる悲智、願行の徳が其足していることを明らかにされるのである。
〔結び〕
名号は、衆生の造作をからず、法体の独用をもってよく衆生を証果に到らしむる行体である。