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十念誓意

〔題意〕
本願には、機受の相として三心と十念とが誓われてあるが、正因は信心である。それではなぜ「乃至十念」を誓われたのであろうか、その誓意を窺う。
〔出拠〕
第十八願に「乃至十念」とある・
〔釈名〕
十念の「念」は、相承の釈では心念と口称とにわたって釈されたものもあるが、善導・法然両師は称名と定め、宗祖もこれを承けて称名とされる。「十」とは仏の説かれた一つの数の名である。
故に「十念」とは十声の称名をいう。「誓意」とは阿弥陀仏がこれを誓われた思召しである。
「乃至」については、宗祖は乃下合釈(行文類)・兼両(上下)略中(文類聚抄)・一多包容(行文額)・総摂多少(信文類・一念多念文意)の四釈を示されるが、前の二は文字の意義を示す字釈であり、後の二は乃至の言を置かれる意趣を顕わす宗釈である。今は後の宗釈によって窺う。
〔義相〕
名号が衆生心中に満入したのが信心であり、それが信後相続の行業として機相に現われたのが称名である。故に三心・十念ともに機受の相であって、その体は名号である。しかるに十念に「乃至」の語が置かれているのは、信後の称名の一多不定をあらわすものであって、称名の多少を問わず、能称の功を認めないことを示すのである。そこで往生の因は信心獲得のときに決定するのであって、称名は往因に関せぬ相続行なることが知られる。それならば何故「乃至十念」と誓われたのかというと、「尊号真像銘文」には、「「乃至十念」とまふすは、如来のちかひの名号をとなえむことをすゝめたまふに、偏数のさだまりなきほどをあらはし、時節をさだめざることを衆生にしらせむとおぽしめして、乃至のみことを十念のみなにそえてちかひたまへるなり。…如来の至心信楽をふかくたのむぺし。」と釈され、
また「一念多念文意」には、本願の文に「乃至十念」とちかひたまへり。すでに十念とちかひたまへるにてしるぺし、一念にかぎらずといふことを。いはむや乃至とちかひたまへり、称名の偏数さだまらずといふことを。この誓願はすなわち易往易行のみちをあらはし、大慈大悲のきわまりなきことをしめしたまふなり。」
と釈されるように、信心は一期相続の称名となって現われ、しかもその相続が易行易修なることを示されたものである。
相承の釈には、善導・法然両師のごとく念仏往生・念仏為本と言って、称名のところで業因の義を語られるものがある。
それは、信心・称名ともに法体名号を領受した相であるから、信を称名に摂めて示されるのであって、時節に就けば称名は信心決定して往因成弁せる以後の相続行である。
ゆえに善導・法然両師の釈にあっても、称名の偏数の多少は問わないのである。
「乃至十念」の称名は、偏数の多少を問わず時処諸縁をきらわぬ易行易修なる信相続の報恩行として、これを誓われたものであって、その体徳をいえば声々みな名号の全現であるから正定業であると共に、これを称える行者の用心をいえば、仏願に全託して仏恩を念報する思いのほかはない。
〔結び〕
称名は、行者の称え心をいえば報恩の意のほかはなく、その体徳につけば正定業であるが、本願に乃至十念と誓われる意は、信心は一期相続の称名となって現われ、しかもそれは念の多少や時節の久近を問わぬ易行易修なることを示されるのである。