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仏凡一体

〔題意〕
凡心が仏心と一体になるという蓮如上人の釈義を窺い、これは信心を獲た者の法徳の所談なる旨を明らかにする。
〔出拠〕
『御文章』二帖目第十通に、さらに一念も本願をうたがふこゝろなければ、かたじけなくもその心を如来のよくしろしめして、すでに行者のわろきこゝろを如来のよき御こゝろとおなじものになしたまふなり。
このいはれをもて、仏心と凡心と一体になるといへるはこのこゝろなり。これによりて弥陀如来の遍照の光明のなかにおさめとられまいらせて、一期のあひだはこの光明のうちにすむ身なりとおもふぺし。とある。
同二帖目第九通にも、一念帰命の信心ををこせば、まことに宿善の開発にもよほされて、仏智より他力の信心をあたへたまふがゆへに、仏心と凡心とひとつになるところをさして、信心獲得の行者とはいふなり。」とあり、『御一代聞書』には、「衆生をしつらひたまふ。しつらふといふは、衆生のこゝろをそのまゝをきて、よきこゝろを御くはへさふらひて、よくめされ候。衆生のこゝろをみなとりかへて、仏智ばかりにて別に御みたて候ことにてはなくさふらふ。」と示されてある。
〔釈名〕
「仏」とは仏心で、如来のよき御こころ、すなわち如来の清浄真実の心である。
「凡」とは凡心で、凡夫のわろきこころ、すなわち煩悩罪濁の心である。
「一体」とは、仏心と凡心とが一体になること、すなわち凡心が仏心に転成せしめられることである。
〔義相〕
仏凡一体は信心の利益をいわれるのであって、信の一念のとき如来の清浄真実の心が凡夫の煩悩罪濁の心の中に満入して、凡夫の煩悩罪濁の心が転ぜられ、仏の清浄真実の心(仏智)と一味になることである。これを宗祖の三心釈で窺うならば、信楽のところに至心の徳が具することであり、現生十益では至徳具足の益、あるいは転悪成善の益にあたる。
これはあくまで法徳の所談であって、現実の機相の上で凡心が仏心になってしまうことでもなく、また一分たりとも滅度を証することではない。機相は信後も一毫未断の煩悩心を持った凡夫であって、凡心がなくなるのではない。しかし、信を獲た者は既に如来の真実心が宿り、当来に仏果として顕現すぺき因の徳を具せじめられるから、そのいただいた法の徳の上で仏凡一体といわれるのである。
〔結び〕
仏凡一体というのは、信の法徳を示されたもので、阿弥陀仏の法を信受したならば、仏の清浄真実の心が凡夫の煩悩罪濁の心に満入して、凡心が仏心に転ぜられることである。これを仏心と凡心とが一体になるという。