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所帰人法

〔題意〕
真宗の信心について、その所帰・所信は仏体(人)であるか、それとも名号(法)であるかについて窺い、真宗は名体不二の名号を主とするのであって、仏体を所掃とする場合でも、帰命には決して希願請求の義はない旨を明らかにする。
〔出拠〕
仏体が所掃と見られる文としては、『御文章』の諸処に、「弥陀に帰す」「弥陀をたのむ」等と示されている。
また、名号が所帰と見られる文としては、本願成就文に、「聞其名号、信心歓喜」と説かれている。
〔釈名〕
「帰」とは帰命の義であって、「所帰」とは能帰に対し、帰命(信)の対象をいう。「人」とは光寿無量の覚体たる阿弥陀仏を意味し、「法」とは名号を指す。
よって、「所掃人法」とは、帰命の対象が阿弥陀仏の覚体か名号かという問題である。
〔義相〕
光寿無量の覚体は大悲摂化の本源であってその全徳を名号に施し、名号は仏体の徳を全うじて衆生に聞信せられる。故に名号は覚体の徳を具し、覚体は名号を離れぬ。
よって、第十七願成就文は、「諸仏如来皆共讃歎無量寿仏威神功徳不可思議」と説き、それを承けて第十八願成就文には、「諸有衆生聞其名号信心歓喜」と示されている。このように名と体とは不離不二であるから、所帰(所信)は名号についてでも仏体に約してでもいわれるので、その一辺に偏執して、仏体が所帰であって名号は所帰でないとし、あるいは名号が所帰であって仏体は所帰でないとするのは共に不可である。
しかるに、名体不二の中においていずれを主とするかといえば、それは名号である。なぜならば、第十八願は第十七願の諸仏所讃の名号を承けて三心十念と誓い、成就文には「聞其名号信心歓喜」と述成せられているからである。また、『本典』の第二巻所明の名号大行は、第三巻所明の大信に対しては所信となるからである。
なお、「弥陀に帰命す」「弥陀をたのむ」というように、所帰を仏体で示される場合も、名号聞信と同じく無疑信順の心相よりほかはないのであって、仏体を所帰とする場合には、請求の義がある、と考えるのは宗義に違する。
〔結び〕
真宗の所帰は名体不二の名号である。したがって弥陀を信ずるというも、名号を信ずるというも、名号聞信の相(信順無疑)のほかはない。もし、仏体を所帰とするときには請求の心相があるとするのは、宗義に違する。