ウェリガナイザ番外編

夢の呪言(サンプル版)

 宿場のはずれに建つ《灰色ロバ亭》は《王の道》とか《石の道》とか呼ばれる街道筋ではありふれた宿屋だ。粘板岩の屋根と漆喰の壁は灰色にくすみ、ちらちらと瞬く角灯に照らされた小さな看板の上で、色褪せたロバが長年の疲れに首を垂れている。
 日はとっぷり暮れてしまっていたが月はまだ昇ろうとせず、星明かりを頼りに歩いてきた旅人が二人、灰色ロバ亭の扉を開けた。中年過ぎの恰幅の良い亭主が酒場を兼ねた食堂の常連客との雑談を中断し、半分も埋まっていない食卓の間を縫って戸口へ向かう。
「お泊まりで?」
 歩きである事と荷物の少なさから、どうせうまやの屋根裏でもあてがうような客だろうと気のない様子で新来の客に声をかけた。
「二人部屋を頼みたいんだが」
 背の高い方の男――といっても亭主とどっこいで中背の下の方くらいだが――がベルトにつけた小物入れから銀貨エイリルを数枚取り出して答える。身なりを値踏みされて前払いを要求された経験があるようだ。銀貨を目にした瞬間、亭主の顔に愛想笑いがはりついた。
「良いお部屋をご用意できますよ。お食事はいかがいたしましょう?」
「何が食べられるんだ?」
「じっくり煮込んだ羊肉のシチュー、香草入りの自家製腸詰め、うちのかみさん自慢の甘藍かんらんと蕪の酢漬け、上物の乾酪ちいず、ほくほくのジャガイモサラダ……」
「適当に見繕ってくれないか。とりあえず冷たい飲み物を頼む」
 男は苦笑を浮かべて、延々と献立を並べ立て始めた亭主をさえぎると、寄ってきた下働きに銅貨と肩にかけていた革袋を手渡す。
「ありがとう。でも、これはいいよ」
 澄んだ声がこぼれ、連れの少年が背負っている竪琴のケースらしき物を渡すのを断った。
 煤けた梁に吊されたひとつきりの洋燈と客のいる席に一本ずつ灯っている獣脂蝋燭だけではわからなかったが、下働きが持ってきた明かりで見ると、二人ともまっすぐな黒髪を肩より短く切っていて、黒い瞳だとわかった。すらりとした体つきも同じで兄弟かとも思うが、顔立ちはあまり似ていない。双方に端正という言葉が当てはまりはするのだが、二十歳くらいに見える方がきりりとした印象で、少年は――十三か十四くらいか――やさしげな少女のようという形容がぴったりくる。
 だが、男の方が腰の後ろにいかにも護身用といった風の長めの短剣ようの剣を差しているだけなのに対して、少年は立派な長剣をいていた。
 商用でも公用でも、かといってただの遊山でもなさそうな変わった二人連れだが、銀貨さえ稼がせてもらえるなら亭主には何のこだわりもない。
「お飲み物はエールでようございますか? お連れさんには水で割ったイチゴ酒などいかがでしょう?」
 下働きに荷物を持っていく部屋を指示した後、酔い客達から離れた隅の席へ二人を案内した。

 薄荷水を飲み干してほうっと息を吐いた少年を見て、エールの杯を置いた男が声をかける。
「随分疲れてるみたいだな、ルシ。部屋に食事を運ばせた方がよかったか?」
「そんなに気を遣ってくれなくても大丈夫です、ラヴァス」
 ルシは慌ててまるくなっていた背筋を伸ばした。
「気を遣ってるのはそっちじゃないのか。ずっとだるそうにしてただろう。昼もあんまり食ってなかったし……」
 確かに体がだるかった。食欲もない。それに、さっきから悪寒がし始めている。
(風邪、ひいちゃったかな?)
 病気で寝込んだ覚えがないルシは経験から自分の体調を判断する事ができなかった。咳や鼻水でもでれば病気とわかるのだろうが、そういう症状は一切ない。
(やっぱりかなり疲れてるのかな。いろいろ、あったから……)
 隠されていた自分の出自を知ってしまった事。世界ウェリアの運命を左右するような特別な力を担わされた事。歩いて半夜はんにち以上家から離れた事がなかったのに、いつ終わるともしれない旅に出た事……。
 ルシの社会見学も兼ねたのんびりした旅とはいえ、環境の変化に体がついていっていないとしても不思議はない。
 それに、多くの不安。自分がしなければならない事、降りかかってくるだろう困難に対する暗い予想がいつもルシを責め立ててている。心の弱さのせいで体調を崩したなんて考えたくないけれど……
「……聞いてるのか、ルシ?」
 少し、ぼうっとしていたらしい。ラヴァスの目がほんの僅か細められた。ちょっと怒ってるな、とルシは思う。最近、決して豊かとは言えないラヴァスの表情を読むコツがわかってきたところだ。
「具合が悪いならちゃんとそう言えと言ってるんだ。俺はそんなに気がつく方じゃないんだからな」
(嘘つき。ラヴァスみたいに察しのいい人は滅多にいやしない)
 出かかった言葉を飲み込んだルシの額に食卓越しにのばされたラヴァスの掌が触れる。ひやりとして気持ちいい。
「熱があるじゃないか!」
「え?」
「え? じゃないだろう。自分でわからないのか?
 亭主! 悪いが食事は部屋でとる。一人分はかゆか何か病人が食べやすいものにしてくれ」
 立ちあがったラヴァスはちょうど最初の料理を運んできた亭主にそう言うと、椅子の上に置いてあった竪琴の革帯を肩にかけ、ルシを抱きあげた。
「わっ、えっ、ちょっと、ラヴァス!」
「部屋はどこだ?」
「二階の一番奥の静かな部屋で……。ご、ご案内いたします」
 慌てて手近な卓に盆を置いた亭主が先にたつ。
「大丈夫ですっ。自分で歩けます! おろしてください!」
「自分が病気かどうかもわからないような奴に、どうして大丈夫だなんて言えるんだ? 階段でふらついて転げ落ちたらどうする?」
 そう言われると反論できない。それでもラヴァスの胸に顔を隠すようにして「でも恥ずかしいじゃないですか」と呟いた。






 何かが追いかけてくる――
 真の闇を見通す彼の眼をもってしても姿をとらえられない何かが。走っても走っても振り切れない。
 もうダメだ。
 疲労からと言うよりは恐怖のせいで立ちすくんだ。
 近くにいる――
 何とかしなければ……。でなければ喰い殺される。あるいは引き裂かれるのか。それとも……。
 誰かに心臓を鷲づかみにされているようだった。込みあげてきた吐き気を堪えながら、可能な限りの速さで魔法陣を描きあげる。
 気配が彼の髪をかすめた。得体の知れないもの。恐怖を撒き散らすもの。姿はないのに確かに存在している何か。
 彼は素早く印を結び、魔を呼び出す呪文を唱え始めた……


「ルシ! 目を覚ませ、ルシ!」
 軽く頬を叩く手の感触。目を開けるとすぐ近くにラヴァスの顔があった。寝台の端に腰掛けて、ルシの眼を覗き込んでいる。部屋へ連れてこられた後、どんどん熱があがっていったみたいで、お粥さえろくに食べられずに眠ってしまったのを思い出した。
「ラヴァス……僕……」
 ラヴァスが掛け布団の上からポンポンとルシを叩いた。
「まだ夜中だ。……起こして悪かったな。悪い夢でもみてるみたいにうなされてたし、それに……」
 視線をそらせたラヴァスが言い淀む。重く冷たい物がルシの胃に流れ込んだ。すごく嫌な感じがする。
「それに……何なんです?」
 理由のわからないあせりに突き動かされたルシは上体を起こしながら続きを促した。
「寝言を言っていた。多分、闇の言葉で。何かの呪文みたいだったんで万一発動したらと……」
「闇の言葉……!」
 夢の中の恐怖がルシに追いつく。
 体が震え、両手で膝の上の布団を握りしめた。目を覚ましたとたん忘れていたのが不思議だ。あれは、あの夢は――。
 その時、ルシの心に何かが触れてきた。おぞましく、それでいてよく知っている何か。それは彼を捜し求めているようで……
 だしぬけに、馬のいななきが響いてきた。一頭や二頭ではない。厩にいる馬がすべて騒ぎ始めたようだ。
「ラヴァス!」
 我に返ったルシが呼びかけた時には、ラヴァスはもう服を着て、靴に片足をつっこんでいた。
「何が起きてるのか確かめてくる」
 言いながらチュニックの上に武器のついたベルトを締める。寝台から滑り降りたルシが頭板に掛けてあった衣類を手にして振り返ると、窓のカーテンを開いたラヴァスが鎧戸よろいどを押し開けていた。
 湿った夜の風が流れ込んでくる。
「病人は寝ていろ」
「でも、もう熱はさがっ……」
解熱剤くすりが効いてるだけだろ」
 ルシを睨みつけたラヴァスは、そこが二階だという事を気にする様子もなくひょいと外へ飛び出した。片膝を軽く地面について着地し、指先のない黒い手袋をはめながら向かいにある厩にむかって走り出す。
「うわあァ――っ!」
 屋根裏うまやで寝泊まりしている厩番の悲鳴が、いななきやひづめで激しく壁を蹴り続ける音を押し退けた。
 扉を開こうとしたラヴァスは中からかんぬきがかかっているのを知って舌打ちする。と、奥の方からわめき声が突進してきた。ガタガタ鳴る閂。ラヴァスが身を退いた瞬間、襲いかかるように観音開きの扉が開き、人が転げ出した。寝乱れ、取り乱した素足の男。立ちあがろうとして腰が抜けてしまっているのに気づき、両手をついたままひきつった表情で厩を振り返る。
 炎が馬房を舐めていた。
 ついさっき彼が落とした洋燈の火が、干し草に燃え移ってしまったのだ。
 燃え広がる炎に照らされて影が動いた。
 眼の隅に捉えた刹那、ラヴァスの背筋に冷気が走る。
 ソレは、もやもやとした何かだった。夜のように黒く、それでいて透けている。さざ波立つ水面のようにうごめくソレを凝視したまま、ラヴァスは腰にのばした右手で束ねた細縄をつかんだ。ベルトに作りつけられている短い帯革のスナップがはずれ、縄の両端の縒り戻しについている掌程の長さの刃と小さな三つ又の鉤がそれぞれの鞘から滑り出す。《稲妻レイプト》と呼ばれるその武器じょうひょうはラヴァスの魔力を受けて半透明な乳白色の刃を蒼白く輝かせ始めた。
 霧のように薄く広がった物の怪を間近にして一頭の馬が後肢立ち、ひときわ激しくいななく。
 あっと思う間もなく馬が妖怪に包み込まれた。異様な音と共に骨という骨が折れ砕け、皮が裂け千切れる。その一部始終、臓物がすり潰されていく様さえが、透けて見えた。悦楽の絶頂にあるようにうち震えた妖魔は、情事の後の吐息のように沈み込み、赤い、どろどろしたものを排泄する。
 飛び散る飛沫。
 異臭が胸をむかつかせる。
 尾に炎を踊らせた馬の痛ましい叫びが、常軌を逸した光景に呪縛されたように凍りついていたラヴァスに行動を促した。呪文を唱えながら左手指を複雑に動かし、真横にあげた腕を一気に払う。
 吹き抜ける風――
 厩から瞬間的に空気が吸い出され、火勢が弱まった。数回同様の手順を繰り返した後、何かを握りつぶすような動きで残り火を揉み消す。
 突風にあおられて地を這うようにひろがっていた妖しい黒靄がゆらめきながらのびあがり、出口へ進み始めた。
 ヒュルルンッ――!
 風を切るレイプト。しなやかな金属の縄の先で輝く刃が円を描く。軽く回されていたラヴァスの手首がしなった。閃光が闇を切り裂く。しかしレイプトの刃はもやもやとした塊の中央をするりと突き抜けた。舞い戻った刃を掌に収めたラヴァスの表情が曇る。
(手応えがない?)
 本物の霧を相手にしているようだった。だが、ソレは確かに馬をき潰したのだ。
(必要な時だけ実体化するのか? 厄介だな)
 騒霊を追い払うくらいならともかく、ラヴァスには強力な霊体を封印したり、実体に乗り移らせて滅するような術は使えない。レイプトをベルトに戻したラヴァスが思案している間にも、黒霧がゆるゆると近づいてくる。
「うわわわわわわ……」
 いまだへたっていた厩番が、やっと逃げる事を思い出したとでもいうように慌てて這いずりだした。
 いつの間にか背後の鎧戸のいくつかが開き、明かりが漏れている。叩き起こされた泊まり客が、騒ぎの原因を見極めようとしているようだ。
 戸口に斧と洋燈を手にした亭主が現れた。厩番の名を叫びながら飛び出してくる。
「一体何の騒ぎだ? 馬泥棒かっ?」
「ば、ば……」
 ようやく立ちあがった厩番が、主人に取りすがった。
「化け物……化け物が……」
 馬鹿げた事を、と言いかけた亭主の肌が粟立つ。厩の入り口にわだかまっている影に気づいたのだ。
「なんだっ? なんなんだっ、あれは?」
「馬どもが騒ぐんで、明かりを持っておりてみたら、そいつが……そいつが地面からわきだしてきて……」
「さがれっ!」
 切迫したラヴァスの声。
 亭主と厩番が尻と背中に痛みを覚えた時には、飛びかかってきたラヴァスと重なり合って六、七エルも後方に倒れ込んでいた。さっきまで二人が立っていた場所で不定型な闇が揺れている。その気になればかなり敏捷に移動する事もできるらしい。
 ラヴァスの眼前に亭主が取り落とした洋燈が転がっていた。硝子が割れ、火も消えているが、薄い金属で作られた油入れの部分は無事なようだ。素早く立ちあがったラヴァスは手にした洋燈を妖魔がたゆたう地面目がけて投げつけた。物の怪を素通りして大地に叩きつけられた洋燈が高い音を響かせる。変形し、ひび割れた油入れから灯油が流れ出した。ラヴァスの手と唇が魔法を紡ぎ出す。
 炎が燃えあがった。
 灯油を苗床に、渦巻き集った風とラヴァスの気を肥料にして爆発的に成長した炎は、黒い霧が占めていた空間に輝く紅蓮の柱を打ち立てる。強い風の壁を通してなお凄まじい熱気が伝わってきた。そして――
 不気味な黒い靄は消え去っていた。
「やった……消えた、消えちまった。やっつけたんだ!」
 欣喜きんきする厩番。しかし、その歓声を悲痛な声がさえぎった。
「違う! やつはあっちの世界に逃げ込んだだけだ」
「ルシ?」
 いつからそこにいたのか、振り返ったラヴァスはきっちり着替えて剣まで帯びているルシを見て顔をしかめる。
「どうしてわかるのかなんて訊かないでください。ただ、なんていうのか、絆が……」
 ルシの視線が落ちつかなげにさまよった。
「多分しばらくは出てこないと思うんだけど……」
 言いかけていた科白を繋がず、自信なげに呟く。
「ああ、馬共の面倒をみてやらにゃあ……」
 腰を抜かす程怯えていたというのに、厩番は自分の仕事を忘れていなかった。馬達は恐れや不安だけでなく、火傷の痛み、恐怖のあまりの疝痛せんつうのせいでも騒ぎたてている。厩番は亭主とラヴァスに会釈すると、逃げるように厩へ駆け込んだ。
 その様子を見て自分もやるべき事を思い出したというように、亭主が語気荒く詰め寄ってくる。
「あんたら一体何者だ? さっきの化け物はなんだったんだ?」
 軽く溜め息をついたラヴァスは首から細い鎖をはずして亭主の鼻先に突きつけた。鎖の先に白金の指輪が揺れている。指輪を手にとった亭主は頼りない明かりの下でなんとか陰刻を判別した。
 頭をもたげ、翼を拡げた竜。
 見たのは初めてだが、話に聞くあの印形指輪に違いない。驚きにヒュッと息を吸い込んだ。
「竜騎士……!」
「ラヴァスアークだ」
 鎖を首に戻し、指輪を上衣の胸元に落とし込んだラヴァスが亭主の耳元で二言三言囁く。
 宿へ戻っていった亭主の背中から目を離すと、少し離れて立っていたルシに歩み寄った。
「寝ていろと言っただろう」
「でも、あれは……さっきの妖魔は僕が……」
 左手で右手首をつかんでうつむくルシ。
 その袖の下にははずす事のできない腕輪がはめられている。不思議な文様を持つ暗い銀色の輪。力と、逃れられない宿命を象徴する美しいかせ
「まさか……」
 ラヴァスの脳裏に彼の理解できない言葉が響いた。その独特の調子から呪文のように感じたルシのうわ言。
「夢の中で、僕はラリックでした」
 ラリック、闇の王とヒトの間に生まれた王子。その彼が光の王女とヒトの血をひく娘を愛するという運命の悪戯によって生を受けたルシは、まだ胎児だった我が子を守ろうとして死んだラリックの呪いねがいによって、彼の記憶の一部を受け継いでいた。
 ヒトの子供として育てられたルシが出生時に魔力と共に封印されていたその記憶を取り戻したのはついこの間の事ではあるが。
「何かに追いつめられて、身を守ろうとしたラリックは魔を生み出したんです」
「しかし、あんな寝言で……。万一発動したらと言ったのは俺だが、そんな高度な術を魔法陣もなしに……」
 生成術は生まれ持った魔力の無意識的な発露などで成立させられるものではない。いくら闇の王子ラリックの知識があるとはいっても、ルシ自身は魔法の修練を積んだ事などないのだから。
「僕だって信じられません。でも、アレは現れた。それに魔法陣はあったんです、夢の中に。どうしてそんな事ができたのかわからないけど、アレは夢と現実の狭間に具象化したんじゃないかと思うんです。だからあんな風に実体化したり実質のないモノになったりできるんじゃないかって」
「もっともらしくは聞こえるな。だが、こう言っちゃなんだが、本当にアレが……」
 言葉に迷ったように息を継いだラヴァスの科白をルシが引き取った。
「僕に生み出されたモノなら、僕らに消滅させられるはず、ですよね?」
 魔物の正体――何処で、何の為に、どうやって作られ、なんと名付けられたか――がわかれば使える白魔法の範囲でなんとかなるかもしれない。
 だが、その為にはルシが正確な生成の呪文を思い出す必要がある。つまり闇の言葉を使う、という事だ。
 言葉を使って思考する者は、言葉によって思考を導かれる。
 たとえば、海の帝国で話されている言葉を使っていると女性が生活の全般を取り仕切る事が当たり前だと思える。帝国語では至高神と大海が同語であり、海は大いなる母と呼ばれ、女性は体内に命を育む海を持つ者と呼ばれるから。
 逆に王国語を話す者は国や家を指導するのは男の仕事で、やむを得ない場合のみ女性がそれを代行するのだと考える。王、家長など指導者を表す単語はすべて男性を指し、稀に女性がその役割を担う時には女王、女家長と、その人物が『男ではない』事をことわらねばならないから。
 闇の言語を学ぶだけでも思考様式が闇に染められる危険をはらんでいる。そう教えられて育ったルシは、自分の心の底にその知識があるのを知ってからずっと《黒い言語》に触れるのを避けてきた。
 それなのに、彼の夢は簡単にその情報を拾いあげ、眠っているルシの唇からこぼれ出させてしまったのだ。
「ラリックが紡いだ呪文を王国語にすると大体こんな感じになると思います……」
 一瞬身を震わせたルシは深呼吸をして目を閉じた。
でよ 我が下僕しもべ
 常闇とこやみの彼方より 奈落の底より
 朽ちし者のあくたより 我が心の暗闇より
 我が元へ来たれ
 われ なんじを……」
 ルシの眉間に深いしわが刻まれ、それに続くはずの魔物の名を求めて声もなく口が開く。が、どんな音を発する事もなく唇が閉じ、かわって開かれたルシの瞳には困惑が宿っていた。
「呪文を言い切る前に俺が起こしちまったのか?」
「どうも、そうみたいですね」
「まずいな……」
 対峙した時の感触、ルシの話から推してあの魔傀まかいは奈落の塵に世界ウェリアを巡る気の流れを流し込んで創られたモノらしい。そう考えると、形が定まらないのは命名によって与えられているべき本質が欠落しているからだろうと思える。
 問題は、名前がないと呼び出しが利かない、つたない魔法で滅する事などできないだろう、という事だ。
 突然、ルシの体に電撃が走った。
 感じる。アレが近づいてくる。
 暗闇での視力を持つ瞳がソレを捉えた。息を呑むルシ。
 何が起こっているのかを察したラヴァスがルシの視線の先に目を凝らすと、遅く昇った月に照らされた夜の中で、一塊の闇がじわりとその濃さを増していった。




「ウェリガナイザ番外編集1巻」収録の「夢の呪言」より抜粋
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