目を光らせて NO.78 九州の旅から 1.
永らく待たせたことだったねえ
アオウ ヒコ

去る9月1×日に、故Y・たへい君の夫人から一葉のはがきが来た。
「 初秋とは名ばかりの日々が続いておりますが、お変わりございませんか。先日は電話にてお話出来、ありがとうございました。分骨の儀、九州行きの日程、とりあえずお知らせ致します。
・9月30日(金)10:55AM 福岡着。博多都ホテル泊。
・10月 1日(土) 11:00AM 阿蘇プリンスホテル・ロビイ Ym氏他6〜7名集合。
1:00PM 同ホテル バイキング昼食。
1:30PM 出発 → 宮地 T氏のお墓にY分骨を埋めさせて頂く→同ホテル泊。
・10月 2日(日) 2:35PM 熊本発→羽田着。 以上 となりました。
私共は、長女、長男、次男と私の4名で参り、博多にて兄達と逢い、阿蘇にも同行する予定となっております。(中略)東京のみなさまに、上記の催事の件、よろしくお伝えいただけたらと存じます。お大切に・・かしこ」とある。
だしぬけに、分骨の儀といっても、何事ならんと思われるであろうから、その背景を短く説明することにしよう。
1.F県K市 M高校をS29年卒のゴルフ好きの同窓が結成した「東京G会ゴルフ班」の一人、Y・たへい君は2005年1月、脳出血で死去。同窓の友を驚かせ、悲しませた。その死を悼んだG会ゴルフ仲間が寄せた追悼文は、弊Webページ「目を光らせて」NO.66「冬のバサラカ」に逐一掲載してある。(URL:http://www005.upp.so-net.ne.jp/kansa/
随想コラム「目を光らせて」)
2.Y・たへい君は高校時代にM高の山岳部に籍をおき、九州の山を根城にアルピニストの腕を磨くに余念がなかった。昭和28年8月11日、同部員のT・たけし君との2人行で阿蘇山 鷲ケ峰、その山麓 仙酔峡に登山し、ロッククライミング中に運悪く足を踏み滑らして滑落、遭難する。
ここで、二人の運命が大きく二つに分かれた。T君は死去。Y君は生き残ったのである。
3.この遭難による若人の死を悼む「鷲ヶ峰哀歌」が作られ、歌われてきたが、去る平成13年9月23日、M高校山岳部OBによる「故T・たけし50回忌」が阿蘇・仙酔峡で行われ、この50回忌を主導したY・たへい君が声涙ともに下る追悼文を読み上げた。
T・たけし君50年忌に臨み、一言慰霊のことばを申述べさせて頂きます。
東に九重連山を仰ぎ、北には火を噴く阿蘇中岳を従え、はるか南の方に祖母山を擁した、われらが鋭鋒”鷲ヶ峯”。その山麓の地、ここ仙酔峡に、君眠りて50年です。はるけくも遠く、今ここに立ちて、まさに今昔の想い、深しであります。(中略)
あの、昭和28年8月11日、一瞬にして、その君の未来の、ことごとくが砕け、飛び散りました。私のもう少しの慎重さと細心の注意が足りなかったばっかりに。誠に無念、慙愧に堪えません。もし今、君存命ならば
「どんな人生ならんや」 と考えこみ、何かにつけて、あなたが思われてなりません。 私にしても、天をのろい、神を恨む、呻吟の40数年でした。(中略)
Tよ、長いこと一人ぼっちで、さみしかったことでしょう。私達もボチボチ、君の際に行く年齢となりました。「人生50年、見るべきものは見つ」 その、私のつたない人生遍歴の報告もしたいし、何かにつけて、ハモッテいた「山の歌」や「ロシヤ民謡」を、よみの国で、また君と一緒に唱いたい。そんな日が一日も早からんことを、心から切望している次第であります。(中略)
永遠の友、T君 俺も、もうすぐ、そこに往くけん、往きたかけん、もーちょっと待っとってください、おねがいします。
(その全文はG会のHP「故T・たけし遭難50回忌」に詳しく、これに譲る。)
http://homepage2.nifty.com/gozenkai/
★
本人が生前、このように話し、亡きT君のみ魂に約束していたこともあり、残された遺族も、見守っていた山岳部関係者も、身罷ったY君の遺志を何らかの形で実践したいとしたことであろうか。

そこに往くけん、往きたかけん、というYの言葉は、仙酔峡にただ一人、五十年余に亘って眠るT君の墓標の元に駆けつけることを意味したから、Y君の遺骨をT君の元に届けてやりたい、とする「分骨の儀」に容易に到達したことであろう。
地元の山岳部関係者とY夫人との間で打ち合わせが持たれ、遭難の日からそう遠くない9月の日が選ばれたようであった。私のもとへも、九州の関係者から、分骨の儀式についての連絡は何度かもたらされていた。
東京G会ゴルフ班での会合では、生前のYは山岳部時代の遭難事件については自分からは触れなかった。触れたがらなかった。ゴルフを介しての懇親の仲間であることを意識してか、山を話題にすることはなかった。
Y君は夏が来ると、同時に滑落し、いのちを落としたT君の墓参りに九州まで出かけた。毎年毎年、それは続けられた。数年前、恒例の墓参から帰京した彼が「まだ、母御が元気にしとらっしゃるけん、こちらも辛かっちゃん」と短くも言ったが、彼にとっては、このことが世の辛酸を嘗めるの第一番に位置したのではなかったか。永い間、その重荷を担いで世渡りをせざるを得なかったのだ。
私も大学では「山の会」に所属して関東の山々を渉猟した時期があったが、それも山岳部というような本格的なものではなかったので、卒業後は家族でのピクニックくらいの山行きとなり、次第に山仲間とは疎遠になった。特にY君に対しては、山の事件を知るだけに、自分にも山行きの趣味があるなど、鐚一文、話したことはなかった。
ゴルフ会員もY君とはゴルフを通じての親交であり、彼の豪快なまさかりスイングは覚えてはいても、ザイルを肩にしたアルピニストのYの姿は想像し難かったことであろう。したがって、Y君の分骨の催事が熊本であると聞いても、ピンと来なかった人もいたことであろうか。
ここは、山岳部の関係者におまかせしておこう、という気持が多かったように思える。来るべき一周忌にはそれなりの供養をと考えていた節もある。遠くから合掌して催事を偲びましょう、という最大公約数であったことだ。
★
Y夫人からのはがきで東京G会の諸氏へ「分骨の催事」を知らせて欲しい旨の要請を受けて、メールが届く同窓諸氏へ遍く通知したことである。

すぐさま、返事が相次いだ。以下はその記録である。
1.お知らせ有難うございました。
「そうか 分骨なさってTさんと一緒になさるのか。何よりだなー」 と50周年追悼の折の彼の言葉を感動して読んだのを思い出しました。
「永遠の友、T君 俺も、もうすぐ、そこに往くけん、往きたかけん、もーちょっと待っとってください、おねがいします。」でしたよね。涙ぐみそうになります。 一種羨ましいですね。 奥様も、お子さん達もなんと思いが深い事か。
阿蘇に思いを馳せて 合掌いたします。
(2005.9.14 S・かつこ)
2.Y氏、分骨に関するお知らせ有り難うございました。残念ながら小生、10月1日より鹿児島で開催される学会に出席のため、熊本の儀式には出席できませんが、皆様に宜しくお伝えください。
(2005.9.16 S・さだき)
3.故Y君の分骨埋葬のこと、連絡いただきました有難うございました。九州での行事であり、遠方で参加できないため、花束を供えたいのですが、貴兄は何か考えがお有りですか。G会ゴルフ一同でも良いのですが 貴兄の判断ご指示下さい。
(2005.9.15 I・さだとし)
4.もうあれから8ヶ月、早いものですね。来月からはTさんと一緒にゆっくりお休みになれるのですね。発言番号1095岩永さんの発言にも彼の元気な姿が偲ばれます。
私も都合がつけば現地にだけ日帰りで行ってみようと思います。ご連絡有り難うございました。 写真は私には最後となった昨年のゴルフ&旅行会の時のものです。いつも笑顔が絶えない彼が珍しく真剣に何かを話しています。(G会HP掲示板より転載)
(2005.9.15 T・みのる)
5.度々のご案内いただきながら、野暮用でバタバタしており、返事がおくれて申し訳ありません。東京G会(ゴルフ部会)より、献花をしたらどうでしょうか。
幸いT・みのる君が出席するとのことですから、かれに一旦立替えてもらって、11月ゴルフ会で相談したいと思います。T君への依頼は、貴兄からくれぐれもよろしくお願いします。
また事後承諾になりますが、ゴルフ会のメールアドレスのある諸兄姉への連絡方も貴兄よりご発信下さるよう、よろしくお願いします。
(2005.9.16 M・ゆずる)
6.T・みのる さま。
別立てのメールでお願いをいたすべきところですが、諸般の事情もわかることでもありと、CCにて下記のお願いをいたす段、ご諒解ください。
記
催事当日、現地へお越しとのご意向を聞き、恐縮ですが、東京G会(ゴルフ部会)よりの献花の労をお取りいただければ幸いです。×万円程度の生花のご手配をお願いいたします。
私事ですが、10月×日に法事でK市へ帰りますので、その節、生花の代金はお支払いさせていただくことにいたします。
(2005.9.16 A・ひこ)
7.G会ゴルフ部会からお花を届けていただけるそうでほっとしています。
Aさんと色々お話ししたときは、まだY夫人から「分骨埋葬の催事」のご連絡が入る前でしたが、「山仲間の催事」として傍観するのは何となく気持がおさまらず、Y・しゅうじ
さんにTELもしないで思案していたところでした。何かとお手数おかけしますが宜しくお願いいたします。
(2005.9.16 W・ひとみ)
8.「山すそ かすむ大阿蘇の 黄煙湧きて雲誘う」に始まる鷲ヶ峰哀歌、ご存知、M高山岳部T・たけし君の転落死事故(昭和28年8月11日)を悼んで、傍示先生が作詞作曲された曲です。
このたび、鷲ヶ峰が見える宮地のT君のお墓に、Y君の分骨をされる由、彼岸でY君、T君がニコニコしている顔が見えるようです。きっとお二方とも安らかに眠られることでしょう。
当時のY君の顔を思い出すため、M高校のアルバムをめくっていたら、2組には載っていましたが、残念ながら山岳部の写真はなく、文芸部の写真にY君とA君が並んで写っているのを見つけました。余談まで。
なお、「鷲ヶ峰哀歌」は、百瀬さんのホームページで歌詩及び曲を聴くことができます。
http://www.hi-ho.ne.jp/momose/mu_title/washigamine_aika.htm(G会HP掲示板より転載)
(2005.9.16 O・せいいち)
9.こまめにご発言・コメント頂き有難うございます。掲示板の管理者として感謝しております。この度は「鷲ヶ峰哀歌」のご紹介を頂き感激を新たにしております。
この件に関して少々補足説明をいたします。「山岳部阿蘇仙酔峡遭難50回忌特集」としてG会HP2001年12月更新で取り上げ、現在もトップページの最終にまだ掲載しています。

このページには、YさんのTさんへの追悼文や譜面も載せています。
皆さん今一度見直して下さい。このページはG会HP中唯一のメロディつきです。G会のOさんにPC用MIDI曲として編曲して頂いたものです。
百瀬さんがこのページを見て是非にと自分のHPへの掲載依頼があったので傍示先生のご遺族の了解を得て承諾したものです。百瀬さんのHPでもメロディーが流れますが、こちらは百瀬さん自身が編曲したものです。
O編曲と比較してお聞きになるのも良いかと思います。私はO編曲の方が好きです。
写真は昨日行ってきた竹田の「七つ森古墳群」に咲いた彼岸花です。(G会HP掲示板より転載)
(2005.9.18 T・みのる)
10.故 Y・たへい氏 分骨の儀 昨日無事終了しました。
私は9時半に前日依頼しておいた花束を受け取って久留米をスタート。途中で昼食を済ませ13時10分、余裕をもって到着、10分ほど待ったら阿蘇プリンスホテルで昼食会を済ませた一行と合流。山の天気も最高で下界では真夏に逆戻りした気温も山では寒くもなく暑くもなし。
Mさん(G会)が分骨場所の構築と清掃をやってくれ、それぞれ持参した花束を飾り、Y夫人が納骨したあと全員で周辺の小さな溶岩石を1個ずつ納めました。
Y・しゅうじさんが弔辞を、K
さんがYさんとの想い出を語りました。素晴らしい山男達の友情です。人工透析をしているEさん、歩行に多少不自由なMさんが杖をつきながら慰霊碑まで登ってきました。他にS・たくみさん、M・ふとしさんが参加、他にも山仲間の後輩や関係者が大勢参加。
集合写真は元NHKカメラマンが撮られてたのでそれを待ってHPに掲載します。
仙酔峡には「ミヤマキリシマ」を見に何度も来てますが、今回初めて慰霊碑を拝みました。
「ミヤマキリシマ」群生地の直ぐ上なので、次回訪れた時にはお詣りしたいと思います。
取り敢えずはご報告まで。(G会HP掲示板より転載)
(2005.10.2 T・みのる)

11.みのるさん 大変ご足労をかけましたネ。 ありがとう!!彼も、素晴らしい山男たちに感謝していることでしょう。(G会HP掲示板より転載)
(2005.10.3 M・しげお)
12.故Y氏の分骨式に、東京G会の献花を、A氏を通してお願いしたところ早速ご快諾いただき、無事お届頂いた由、誠に有難うございました。東京G会ゴルフ部会一同に代って御礼申し上げます。次回幹事:I、M(G会HP掲示板より転載)
(2005.10.4 M・ゆずる)
★
Y君、Tさん、ひさしぶりの邂逅、いかがでしたか。あまりにも話すことの多かりきで、少々お疲れではありませんかな。少し、ペースを落として、語り合って下さいよ。Tさんはあのときのままだろうから若々しく、おまえさんは世に揉まれた分だけ、少しばかり加齢(華麗にあらじ)しくだから、話が合うのかどうか、心配しないでもない。もし、話が途切れて、話の穂つぎに難渋したら、しばし、話をば止めて、肩でも組んで下界の様子にでも目を向けてくれ給え。そうそう、そんな感じで。
このところ現世は大規模な自然災害が続いています。地震、津波、台風、ハリケーン、洪水と今までに経験したことのない想像を絶する災害が世界に頻発しています。戦争のために準備したものはまったく役に立たず、罹災した住民へは救援物資が行き渡らず、政府はなすところなしの放置状態にあるようです。パキスタン人の難儀は大変なものです。ここのところを、少しばかり、ご報告しておきましょう。
ハリケーンがニューオーリンズを襲って甚大な被害を与えた記憶がまだ新しい10月、今月くらいは静穏な地球であって欲しいと世界のだれもが思っていた矢先、パキスタン大地震が起きた。旅行者のコメントに端無くも口をついて出た「正直言って地震にはひとたまりもなく壊れてしまう住居ばかりですから」の脆い構造の住居のすべてが瓦解し、中にいた住民は瓦礫に埋まった。
その数、最終的には5万人になんなんというから、人命が失われた点では、ハリケーンによる米国民の死者をはるかに上回る大災害であったことだ。
家屋が潰れ、下敷きになった住民の捜索と救出は初動対策が俊敏に採られることがなによりも重要だ、とされる。地震が起きて、5日目までに救出しないと、統計的にまず、生存者としての救出は絶望的になる、といわれる。まさしく一刻を争うわけである。
大地震のニュースをキヤッチした諸外国からは即刻、救援隊がパキスタンに飛んだ。日本からも、もちろん、救出隊が現地へ向かった。
だが、日本隊は民間機を利用して、乗り継いでの現地入りをした。瞬時を争うのにもかかわらず、乗り継ぎ空港での時間待ち、携行する機材の積み下ろし、積み替え作業に思わぬ時間を空費して、着いたときには、大切ないのちを救う初動期間を過ぎてのことだった。
或るラヂオが言っていた。「こういうときには、政府専用機を飛ばすくらいでないとだめ。これで即刻飛んで行け!と首相は決断を示すべきではありませんかね」それほど、地震に埋められた住民のいのちを救うには、俊敏な決断が要る、ということである。同感する思いがあった。
パキスタンもインドも核兵器を保存する国家である。核兵器を開発、保持、管理、更改するには莫大な国家予算を必要とするだろう。そのために割りを食ったのが両国の住民たちである。海沿いの道路が瓦礫で埋まってしまうと、交通途絶、ヘリがなければ、連絡も補給も救援も出来ない状況に追い込まれた。埋まった海岸線を復旧する重機がない。なによりも肝心なヘリコプターがない。諸外国にお助けください、ヘリを回して下さい、と哀願するかと思いきや、けんつく口調で救援と援助を要請する。
宗教対立で永いこといがみあった両国も、ここ数年は融和の方向に進みつつあり、結構なことだと思っていたが、今回のような大災害が起きてみると、特にパキスタンは、国家として、国民を守る力が皆無に等しいことを暴露した。
陸路が遮断され、内陸部への援助物資が届かない。のこるはヘリコプターによる空輸しかないが、肝心のヘリがないというか、少ない。インドが運転要員付きヘリの支援を申し出たが、ヘリだけ寄越してくれればよいとのパキスタンの返事とあって、インドならずとも呆れてものが言えない。
この火急のときに、パキスタン政府はなにを考えているのだろうか。機材だけ寄越してくだされば、という回答はインドによる人道援助の申し出を踏みにじることになることに気が付かぬのであろうか。
ヘリだけの提供であれば、事態が収まったあと、返しにいく人間がいないから、とかの理由をつけて、ついでにヘリも頂戴させて頂きますとの魂胆でもあるのか。軍人が言っているのであろうが、まあ、お粗末な国際感覚である。
一方、被害を受けて家を失った住民たちも、贈られた食料品や毛布類を奪い合い、罵り合い、憎しみ合い、援助への感謝を示すどころか、遅延への抗議と怨嗟たらたらである。贈る側も、援助物資を求めて群がる住民に、トラックの上から餌でも撒くように物資を投げ与える。受け取る下では、屈強な男どもが、弱い女子供を蹴散らかし、我が物顔に分捕りあう、弱肉強食の争奪合戦である。
こういう非常事態に投げだされると、まずはとにかく、テントなり、食料なり、他人を排除してでも、ものにありついたほうが勝ちだ、とする生き残り本能がギラギラと頭をもたげるのは理解できないではないが、少し分別のある住民はその奪い合いの渦中に入ってはいけない。
いたずらに手を拱いて傍観している姿を見ると、救援物資を届ける側にも、少し智慧を出して配布方法を考えよ、ただ、投げ与えることですむものではないよ、声を荒げたくなるではないか。

核兵器や軍備拡充投資のひずみが、住民福祉切捨て政策となって、かくも、信頼に値しない政府に成り下がったのではないか。また、それを許してきたのは国民たちではないか。
普段から、天災への備え、対策をとることもなしに、他国との戦争の備えに狂奔してきた政府よ、国民よ、恥を知れ、となじる気分にもなろうではないか。
核兵器を保有する国家へは、たとえ、不幸にして大災害に見舞われようと、一切の救援支援は行わない、とする基本ポリシイを取る国家があってもいい、とまで考えることである。
日本においては、10月下旬、のろのろ北上で気を揉ませた台風20号がうまく本土を逸れてくれて、ようやくほっと息をついたところである。が、米国では、ほぼ恒常的に巨大スケールにまで成長するようになったハリケーンが、再び猛烈な勢力を蓄えて、メキシコ湾からニューオーリンズに上陸する趨勢にある。
ここでも、自然の猛威の前に世界最大の核兵器保有国アメリカがお手上げである。ハリケーン襲来が報道されるたびに、避難を繰り返さざるを得ない住民がいる。さすがに大国の手前、救援物資送れ、ヘリ頼むとは言わないでいるようだが。
(2005.10.22)
(注)緑色表記は筆者以外の、外部からの借用である。
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プログコ
ーナー:
いただいたお便りをご紹介することにしました。
おたよりをメールでお寄せ下さい。
いま、はやりのプログとまではいきませんが、
既載の便りNO. を指定して、それに連ねよとする形で
お送り下さっても結構です。
省略することがあります。お名前は半分隠し、敬称は略します。
ご感想、ご意見お待ちいたします。
送信先 → e‐mail: hiko@yc5.so-net.ne.jp
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1.随想コラム 読ませて頂きました。ますますのご健勝何よりです。亡きご友人への友情ひしと伝わりました。
JOのOB、市川さんが10月に入って亡くなられたそうですが、北ORの社長室で環境事業に関して厳しい折衝をしたことを思い出し、一人哀悼の意を捧げました。
せめて通夜の線香でも立てられればと、寂しい気持ちです。昭和11年のお生まれだそうです。
合掌。 (2005.10.22 Y・しゅうじ)
2.NO.78「永らく待たせたことだったねえ」、ハードコピーにして拝見、山男の永久に消えぬ友情、よくぞフォロー、感謝。
彼も喜んでいることと思います。 (2005.10.22 O・せいいち)
3.鷲ヶ峰哀歌 聴きました。泣きました。有難う。 (2005.10.23 I・ひろおみ)
4.[永らく待たせたことだったねぇ」、G会HP掲示版でも読ませて頂いてたものもありますけど、こうして、まとめてコラムにして頂き、お二人が肩を組んで下界を見下ろしてらっしゃるイメージまで与えて下さるなんて感謝です。 (2005.10.23 S・かつこ)
5.ご母堂様の三回忌の法要から由布院へとお疲れ様でした。ゆふトピアの2泊の料理などのおもてなしはいかがでしたでしょうか、奥方さまにはご不満などなかったでしょうか?
このところずっと晴天つづきでしたから、行楽にはよろしかったですね。
さて、貴兄のHP拝読しました。Y兄のところは眼頭が熱くなりますね。小生も当日鷲ヶ峰に行く予定をしておりましたが、10:00から仕事がはいり、いけなかった。近々おまいりに行くことを考えております。
ホタル事件? 以来、由布院には足が遠のいております。こちらはこの2〜3日寒波とは大げさですが、急に冷えこみ、昨日はスト−ブを出したことでした。ではまた。
(2005.10.24 I・ちあき)
6.永らく待たせたことだったねえ
今回のご報告は感動しました。身内、京都の本山への分骨はよく聞きますが、友情による友への分骨は珍しく、私をして大きく心を動かさせました。
T・タケシさんもY・たへいさんも私は存じあげないが、貴殿の知らせの中で、仙酔峡遭難に関わった全ての人達の人間愛、友情が強く私の胸を打ちました、Y・たへいさんの追悼文 「俺も、もうすぐ、そこに往くけん、もうちょっと待っとってつかさい」 とYさんの心情が凝縮されていて、感動しました。そのYさんが逝った。新田次郎の小説を思い出しています。
後に残された地元山岳部関係者とYさん夫人のフォロー・アップもまた見事です。
戦争に行った者には、特に、ある瞬間、運、不運と生死を分けることがよくあります、いつも残った者の方がより辛いものです。
TさんもYさんも存じ上げないが、心から哀悼の意を表するものであります。貴兄の知らせは私自身、心が洗われたように新鮮な気持ちで一杯です。有り難う御座いました。
お身体にご留意の上、奥様共々のご活躍を祈っています。今回、小生、何時もの拙稿は哀悼の誠を捧げるため、次回にしたいと思っています。
(2005.10.25 T・のぶあき)
7.お礼が遅くなりました。すみません。 Y君 本当に男でしたね。
私も高校入学時は山岳部でした 当時の装備はテントもリュックも綿で、足は地下足袋、雨で濡れると重さが倍増し、苦しみました。乗換駅で仮眠を取り、バスも無いため、駅から頂上まで歩かされた記憶が鮮明です。
小倉高校は二年になると、毎月試験があり、何時の間にか山どころでなくなってしまいましたが、それだけにY君の心情がうかがえます。
(2005.10.26 K・つよし)
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