社会的規制について



作成日:98/08/26





 企業をモラル主体とみない立場に立つと、企業の在り方を変える途は政府によって実施される規制に帰着します。この点でも、アメリカの経験は示唆的です。

 アメリカでは,政府が企業にある一定の反応を強要し,企業行動を強制手段を利用して統制できるシステム,が確立しています。これが政府規制(goverment regulation)システムと呼ばれているものであり,命令統制システム(command and control system)と言われることもあります。

 政府の規制活動は規制される領域に応じて多様であり,たとえば,連邦レベルに限定しても,1990年前後には100以上の連邦機関が膨大な規制に監督貴任を負わされていました。ただし,そのような政府規制をいくつかのタイプに分類することも可能であり、通常、政府規制は,個別産業規制と社会的規制そして機能別規制の3つのタイプに整理されています。ビジネス倫理ともっとも関連してくるのは社会的規制です。

 政府規制推進論者には,一般的に,つぎのような発想が横たわっています。社会はビジネスにモラル的に行動することを期待すべきではないのであり,むしろ社会はビジネスの利潤追求を社会的に認められる方向へと向けるために政府を利用すればよいのだ,との考え方,がそれです−−−この点で,規制論者は市場万能論者と同じ発想をしているのです。

 そしてこのことは,政府規制が,ある意味では,企業活動を「モラル化」するための1つの方法である,ということを意味することになります。なぜならば,(企業の極大利潤追求策の軌道修正をおこなう)政府規制,特に社会的規制によって,企業はモラル的行動をとることを余儀なくされるからです。

 かくして,ここに,法律が,そのような目的(企業のモラル化)にとって,十分に適切な手段である,との信念,が生まれてきます。しかもこのような認識は,政府規制が企業にとっても有利に作用してきたために,産業界にそして社会に受け入れられていきました。

 たとえば,政府規制の企業にとっての利益としてつぎのことが指摘されてきました。
(1)ビジネス活動の基本ルールとしての公平な競争がおこなわれる
  可能性をつくりだすこと,
(2)個々の企業が競争上不利益にならないように,社会に望ましい
  企業活動へと誘導できること,
(3)大衆が望ましくないと考えている企業活動を最少限にとどめ,
  (大衆がもとめる)社会的責任に対応できること。

 我々は,今日,政府規制(社会的規制)がおこなわれてきたことによって,たとえ一部の現象としても,公平の実現、人権の保護、正義の遂行,などがその成果としてあらわれている,という「事実」,を認めざるを得ないでしよう。この意味で,たしかに,企業はモラル的になりえたのでした。

 しかし,政府規制を企業活動のモラル化の方法として積極的に利用できるかどうかといえば,そこにはいくつかの問題が内在しているために,(個々の企業のなかにも)慎重な態度が生まれそれが大きな流れとなっていったのです。政府規制が抱えている(と考えられた)そのような限界として,注目すべきことはつぎの2つです。

 その1つは政府規制の性格それ自体から生じてくる限界であり,政府規制が社会に対してもまた企業に対してもマイナスに作用する,との判断が生まれ次第に浸透していったことがその限界の存在を示しています。政府規制が社会に便益をもたらすだけでなく,その規制には多大なコストがともなう,という主張はその具体的な反映であり,近年では,便益よりも費用の方が大きくなってきたという認識が広がっていきました。

 政府規制自体の性格から生じる限界に関しては,それ以外にも,見過ごすことができない重要な認識が広がっています。政府規制によって企業の自由が制限される,との批判が高まってきたこと,がそれです。たとえば,政府規制の企業に対する不利益として,つぎのような解釈がよく知られています。
(1)政府規制は企業(やマネジメント担当者)のパワーや威信を
 減少させるであろう,との認識,
(2)政府の役人は企業のインセンティプや効率を妨害し利潤を減
 少させる,との恐れ,
(3)政府の役人はビジネスを理解しておらず,したがって,その規
 制は非現実的であり作動しない,との判断,
(4)政府の役人は他人の倫理についてコメントできる立場にない,
 との判断,
(5)連邦政府は多元社会においてすでに十分にパワーフルであり、
 この方法でそのパワーをそれ以上増大させることは不適当であ
 る,との判断,
(6)政府規制は企業の合法的な自由やモラル上の権利を犯すも
 のである,との判断.

 だが政府規制の限界として考えられてきたことは以上のことだけでなく,モラル化の方法としての政府規制の限界から生じる問題も挙げることができます。企業活動のモラル化という点で,政府規制(法律)はなにができそしてなにができないのか、と。
 
 たとえば,この点、(様々な文献のなかで引用されることが多い)法律学者 C.Stone はつぎのような現状認識を示しています。
(1)多くの法律は問題が一般的に認識きれるに至ってはじめて通過すること,
(2)適切な法律を考えそして効果的な規制をデザインすることは困難であること,
(3)法律を施行することはしばしば面倒な作業であること。

 ただ,モラル化の手段としての政府規制(法律)の限界は上述のことだけではありません。モラル的に必要であっても法律的にそれを強要することができないことも多々あるのであり、我々の問題意識から言えば、このことの方が,ある意味では,ヨリ重大な問題として認識されるべきものだと思われます。

 ただしここで注意しておかなければならないことがあります。それは、これらの限界が,政府規制は意味がないもの(hopeless)である,という主張に,決して,短絡的につながっていくものではないということです。

 (今日企業レベルの倫理をあらためて問題にしている)ビジネス倫理学は法的規制の意義を十分に認めています。しかしビジネス倫理学にとっては,それによって(企業活動のモラル化という点で)どれだけ成果があるか否かにかかわらず,そのような政府規制だけでは不十分なのです。

 企業は法律に従ってさえいれば良いのであり違法でないことならばいかなることをしてもモラル的に許される,という考え方−−−このことを拒否することから,今日のビジネス倫理学は出発しているのです。

 かくして,企業レベルの倫理(モラル)への関心が高まるなかで,一方で,法律(政府規制)だけでは社会的規範を決めることができないとの認識が深まり,他方で,政府規制にすべてをまかせることは企業の存在にとって必ずしもプラスにはならないとの判断が加わって,企業レベルにおける企業自身に倫理問題の処理(倫理の内部制度化),が全面に押しだされてきたのですが、アメリカの「実験」はその「自主規制」の限界を白日の下にさらすことになりました。

 我々は何ができるのでしょうか。