ビジネス倫理学からみた社会契約概念



作成日:98/08/26





 社会契約というコトバ自体は社会科学にはお馴染みの概念であり、我々は反射的にホッブス、ロック、ルソ−の名前を思い浮かべるであろう。事実、そのような考え方は、典型的には、17世紀から18世紀にかけてホッブス、ロック、ルソ−等々の政治哲学者たちによって発展させられたのでした。

 社会科学において良く知られている「社会契約」という概念は、改めて言うまでもなく、社会と国家の間に「存在するもの」として語られてきた)モノであり、「社会の様々な構成員間に見られる行動パタ−ンについての一連のル−ルや仮説」、を意味しています。ヨリ簡単な説明に従えば、「社会ないし国家」は「自由で独立した個人の契約によって形成されるという考え方」、が社会契約説です。

 この具体的内容は論者によって異なりますが、次のような理論構成をとる点では共通しています。すなわち、「人間は、社会が形成される以前の自然状態においては、相互に自由、独立、平等であり、いずれの人も他人に対する政治的な支配権をもっていない。自然状態にはこのような長所がある反面、権力がかけているため、人問関係は不安定である。紛争の解決は容易ではなく、安定した社会関係を発展させることはできないのである。そこで人々は、契約によって社会を形成し、為政者を選出して、これに統治をゆだねることになる。人々は、社会の形成という目的の達成のために必要な範囲で自然状態の自由の一部を放棄するが、この放棄は無制限なものではありえない。社会の形成の目的(たとえば、安全や生活の便宜)と矛盾するような義務を人々におわせることはできず、また、極端に不平等な関係を不必要に導入することもゆるされない」、と。

 このような社会契約説は「契約をおこなう人間の自由で平等な性格を強調することで、社会変革の原理」となり、人類・社会の発展に大きな役割を果たしてきましたが、それが社会科学史上果たしたヨリ重大な貢献は、国家の存在を正当化する「根拠」として役だったことにあります。そして今日、この考え方がビジネス倫理学の中に「継承」されたのです。

 もちろん、ビジネス倫理学においては「社会契約」概念がかっての政治哲学者たちとまったく同一の意味で使われているわけではありません。だがその発想は同一のものであり、そのようなものとして、ビジネス倫理学の体系のなかで新たに重要な位置づけが為されるようになってきたことは事実であり、例えば、T.Donaldsonがその代表です。

 Donaldsonは何故に社会契約論に注目したのでしようか。彼は、「規範的コンパスを欠くならば、ビジネス倫理学は特定の個人の直感的反応や政治的バイアスを反映したものとなろう」との主張からも明白なように、基本的には、規範論的アプロ−チに立っています。

 (このような立場にある)彼の現状認識に従えば、既存のビジネス倫理学の発想(例えば、古典的倫理理論をビジネス倫理の諸問題に適用したり、すでにマネジメント関係者の中で良く知られている概念を再構築しその応用範囲を拡げること)のもとでは−−−確かに(前者を代表する)功利主義的アプロ−チやカント的アプロ−チの貢献は十分に認められますが一般的すぎるし、(後者を代表する)ステイクホルダ−・アプロ−チはビジネス倫理学をその具体化に向けて大きく前進させましたがいま大きな転換点にある為に、ビジネスに携わる意思決定者を導く(guide)ための規範論としての存在となり得るようなアプロ−チは展開されえないのではないか、との一種の危機感が生じることになります。

 Donaldsonによれば、いまビジネス倫理学に求められているコトは「実践的でしかも一般的に受け入れられるような」アプロ−チです。だがこれまでのアプロ−チは事実上そのような課題を解決できませんでした。何故なのか?

 その理由は、(ビジネスとは人間がつくりだしたものである、という)ビジネスの特殊な性格に起因します。ビジネス(企業)は人間によって発明されつくりだされたものであるが故に、国、文化、産業、等々によって、その性格を大きく異にすることになります。例えば、企業に代表される経済制度が、他の制度と比べると、それが立地するそれぞれの地域の文化の在り方に著しく強く影響を受けていることは、すでに周知の事実と言っても良いでしよう。

 とすれば、そのような存在としてのビジネスに「一般的な」倫理理論を適用することは果たして適切な試みといえるのであろうか−−−−−これがDonaldson の基本的な問題提起です。

 したがって、ここに、多岐に渡るビジネス活動の存在を正当化するものとしての「規範」はあり得るのか、という疑問が改めて生じてくることになります。そしてDonaldsonがこのような疑問に対する「回答」として注目したのが、契約論的アプロ−チだったのです。

 ビジネス倫理学に「継承」されている社会契約論の中で現在最も完成されたモノはT.Donaldson&T.Dunfeeの「統合」社会契約論です。

 「統合」という形容詞が冠されているのは、彼らが、それぞれのモラル主体の行動を律する規範(基準 スタンダ-ド)は、暗黙の(存在すると仮定されたものであるところの)「マクロの」社会契約と現実に存在し機能しているがこれまた暗黙の(コミュニティ・レベルで生じた)「ミクロの」社会契約との「統合」を通して、確立される、ということを強調するためです。

 統合社会契約論はいくつかの概念によって構成され(特徴づけられ)ていますが、特に重要な概念としては、限定されたモラル合理性、マクロ社会契約、ミクロ社会契約、モラル・フリ−・スペ−ス、ハイパ−規範、ホンモノの規範、正当な規範、プライオリティ・ル−ル、等々が挙げられます。

 この統合社会契約論の内容を簡潔に要約すると、次のようになります。

 理性的な人間は、モラル合理性に限界があることを認識しているが為に、(自分を含めた)それぞれの人々が創りだした経済コミュニティに、彼らたちが選択した手段を通して彼ら自身の倫理的行動規範を定めることを認めてくれるような、社会契約、に同意することになろう。

 ただし、そのことは、コミュニティ・レベルの規範は、それがハイパ−規範と両立し、また異議申し立てと脱退の権利に支えられたインフォ−ムドコンセントにもとづき、そして更にまた規範間に対立が生じたときにはプライオリティ・ル−ルに支持されてはじめて、倫理的に義務的な規範、へと転化することになる、ということを前提にしたうえでの「話」である。

 企業という組織は人間が創りだしたモノです。だがそのような組織は、そこには固有の論理(資本の論理、官僚制、等々)があり、そのまま「市場の論理」に委ねて置くならば、その傾向は歯止めなく続くコトになり、様々な問題を生み出すことが今日の共通の理解となっています−−−これがいわゆる資本(組織)物神性と称せられている問題群です。

 我々はこのことにいかに対応すべきなのかあるいは対応できるのでしょうか。回りくどい道ですが、これを止めることができるのは、結局は、「理性」を有した人間の「知恵」しかないのではないでしようか。

 この点、正当な「手続き」にもとづいた社会契約は−−−解決すべき課題を未だ多く残していますが−−−いま考えられる「最良」の方法の1つと思われます。