道徳規範の内容と相互関連



作成日:98/08/26 



 個人が自己の行動ないしは決定を「倫理的に」正当化する場合の「拠り所」として、通常、次の3つが指摘されてきました。@慣行、A原則、倫理テスト、がそれであり、それらのなかのAの原則がモラル規範を重要視したアプロ―チとして知られています。

 ただしそれぞれの原則の内容は必ずしも確定したものではなく固定されているわけではなく、個々の原則はそれぞれの時代のなかで「新たな」意味を付され、それぞれの時代に相応しい「内容」を有する原則として存在する、との「理解」が支配的です。

 上述のことは「個人」を念頭においたものですが、応用倫理学の1つとしてのビジネス倫理学にもあてはまることです。すなわち、企業をmoral agentとして見なす立場に立てば、そのことは、基本的には、企業という組織体にも妥当することであり、単にすでに自明な原則を適用するのではなく、いかなる場合にいかなる(内容を有した)原則を適用するべきか?を考えるのが、ビジネス倫理学なのです。

善悪ないしは正誤を判断するための基準としての伝統的なモラル規範

 実践の規準となる規範としていわば「常識化」している倫理理論は、第1に、(結果が良ければその行為は良いとみなす)結果主義的アプローチ(目的論)であり、第2に、(正しいか間違っているかは行為の結果だけではなくそれ以上のなにかによって決定される,と考える)非結果主義的なアプローチ(義務論)です。そして前者はさらに,(自分自身のためだけの結果を考える)エゴイズムと(影響をうけるすべての人々のための結果を考慮に入れる)功利主義,に分けられ,後者ではカント主義と「一応の義務」論がよく論じられています。

目的論
 エゴイズム
 エゴイズムの1つである倫理的エゴイズムによれば,すべての人間は一定の状況のもとで自分の個人的なgoodをつねに最大限にするように行動すべきである、ということになります。

 この倫理的エゴイズムを拒否したものが自然に選ぶ別の途が功利主義です。

功利主義
 その功利主義によれは,行為そのものではなく、行為によって生みだされるgoodとbadのバランス―――すなわち,badの結果と比べてgoodの結果がヨリ多くもたらされるか否か――― が、ある行為をモラル的に正しいかあるいは誤っているかを決定することになります。この点で、功利主義は(行為そのものがそれによって生みだされる善goodあるいは悪evilとは異なるモラル的価値をもつと主張する)他のモラル理論と異なるのです。
 
 功利主義の本質的な特徴として3つのことが指摘されるでしよう。

 第1は功利主義がgoodの最大化に関わっていることであり、その最大化への明白な手段として効率が位置づけられています。

 第2に功利主義(者)的信念に従えば,我々が人生において探究し促進すべきものはそれ以上の結果に関係なくそれ自体でgoodである経験や条件であり、すべての付帯的なそして道具的に価値あるものは究極的にはそれらの本質的にgoodなものを得るために生みだされるものです。ただし,なにがgoodなのかについては功利主義者の間で見解が分かれています。たとえば,功利主義の基本的な考え方を最初に本格的に展開した人物として有名なJ.BenthamやJ.S.Millにあっては,快pleasureあるいは幸福happiness――― 彼らにとってはこれらは同意義でした――― だけがそれ自体good なのであり,快以外のものはすべて道具的に good であるにすぎません(言葉を換えていえば、快という目的への手段としてgoodなのです)。この立場は快楽主義的功利主義としてあるいは幸福主義的功利主義として知られています。

 これに対して,快以外の他の価値(たとえば,友情、知識、勇気、健康、等々)も内在的に価値をもつ,と論じられることがあります。これらの多数の内在的価値を信じる功利主義者は多元論的功利主義者(あるいは理想主義的功利主義)として知られています。また今日では,個人的な好みpreferenceを重視するアプローチが大きな影響力をもちはじめています。この立場によれば,功利概念は幸福などの事象の状態ではなく,むしろ(人間の行動によって決定される)個人的選好の満足というタームで理解されることになります。
 
 第3の特徴は,goodは測定されうるし比較されうるという考え方が,功利主義では,前提になっていること,です。

 このような功利主義は―――なにがgoodなのかあるいは功利の概念をめぐって,上で触れたように,いくつかのアプローチが存在していますが,それとは別に―――大きく2つのタイプに分類されることがあります。行為(act)功利主義と規則(rule)功利主義がそれであり、功利の原則(たとえば,最大多数の最大幸福)は,特別な状況下の特別な行為に適用されるのかそれとも行為が正しいか間違っているかを決定する行動規則に適用されるのか,をめぐって議論がおこなわれてきました。

義務論
 功利主義によれば,ある行為ないし規則は,それが最大のgoodな結果を生みだすならば(そのかぎりにおいて),正しい,ということになります。これに対して,行動の価値はその結果よりもむしろその動機に存在していることを強調するのが(ギリシア語deonに由来する)義務論(deontology)です。義務論によれば,ある行為ないし規則は,それがある種の最優先の(非功利主義的な)原則あるいは義務の原則に一致しているならば(そのかぎりにおいて),正しいのです。

 このような義務論的立場に従えば,モラル標準は功利主義的な目的とは関係なしに存在することになり,守るべきモラル義務がそのような標準として問題となります。だがそのモラル義務の概念が必ずし1つではないのであり,ここに義務論もいくつかのタイプに分類されことになります。行動義務論と規則義務論です。

 また規則義務論は1つのすぐれた原則だけを重要視するのかあるいは多くの原則を念頭に置くのかによって一元論的義務論と多元論的義務論に分かれます。一元論的義務論は,一般的に,1つの基本的な原則が他のすべてのモラル規則や判断が演繹される源泉を提供する、と主張しますが、これは神意論とカント倫理学に代表されます。これに対して,2つあるいはそれ以上のモラル原則を認めるのが多元論的義務論者であり,それはW.Rossの「一応の義務」論に代表されます。

カント主義
 人間の行動への動機として義務を重要視したのがE.Kantです。人間は単に義務に従って行動するのではなく義務のために行動しなければならない―――これがKantの立場です。ただしここに問題が生じてきます。それは義務の具体的な内容です。

 Kantによれば,ある人がモラル的に正しい行動をするということだけでは不十分です。なぜならば,その人はモラリティとはなんら関係のない利己主義的な理由でもその義務を遂行できるからです。人間は,彼に従えば,妥当な規則にもとづくモラル義務が行動の唯一の動機であるときにgood willをもつのであり,ある行動は,このgood willをもつ,言葉を換えれば,自律的な意思を有する理性的な存在によって遂行されるときにはじめてモラル上の価値をもつのです。

 Kantはこの見解をモラル法として展開し,さらに,そのことを,人間は他の目的のための手段ではなくそれ自身が目的として扱われなければならない,という定言要求として特徴づけました。このことは,我々は人間を彼自身が自律的に設定した目標をもつものとして扱わねばならないこと,したがって,他人を自己の個人的目標への手段として扱ってはならないこと,を意味しています。

 この原則は今日「定言的命令」として知られるものであり,Kantによってつぎのように定式化されています。「なんじの行動原理(maxim)がなんじの意思によって普遍的な法則となるようにつねに行動せよ。」 この「定言的命令」は,それがいかなる例外も認めず絶対的なものなので――― もし〜しようとするならば,という条件が付いていないので―――「定言的」であり,またそれが我々がいかに行動すべきかの指示を与えているために,「命令」なのです。このために、Kantは普遍主義(ユニバ―サリズム)の原理を基本的に創りだした人物として知られています。

多元的義務論
 義務論によれば,人は,その結果のいかんにかかわらず,モラル的に正しいことをおこない,モラル的に間違ったことを避けるべきであるということになります。それが人の道、人の義務なのです。しかし現実には,(それぞれについては一貫している)複数のモラル規則・原則が矛盾し衝突する状態,が生じます。この義務の対立という問題を解決するために多元論的な規則義務論を展開したのがRossです。彼の説は「一応の義務」(prima facie duties)として知られています。

 Rossによれば,現実にはいくつかの異なったタイプのモラル義務が存在しています。しかもそれらは必ずしも功利の原理からも定言的命令からも説明されないのであり,モラリティは多くの基本的な原則から構成されています。たとえば,約束を守る義務,補償の義務、感謝の義務,修養の義務,他人に害を与えない義務,慈善を施す義務,正義をおこなう義務,が挙げられます。

 Kantの義務論を補足するモノとして自然法説 moral law doctorin(権利の倫理学)があります。

 この思想の歴史は古く従ってその解釈は多様となっていますが、常識的な理解では、人間が作った法律のうえに、ある客観的なモラル秩序(「自然法)」が存在し、それが支配者のパワ―を制約する、というのが(17世紀以降の)基本的な考え方であり、これが「権利」という考え方と密接に結びつくようになっていきました。

 別の表現をすれば、自然法は政府に正義を要求するが、被統治者に権利を与えたのです。人間には、人間であるが故に所有する権利(⇒人間の権利)―――例えば、生命、自由、所有、の権利―――があるのであり、そのような権利を認めることだけが政府の仕事なのです。そしてこのような「発想」はその後「社会契約説」という形で広く展開されていくことになったのです。

 以上の様な簡単な説明からも「権利の倫理学」がカント主義との結びつきが強いことが判ります。例えば、人間の権利を主張し他の人からの専制から守るという思想が「人間自身を目的として扱うべきである」とのKantの考え方と軌を同じくするモノであるし、全体としての「善」のためという錦の御旗のもとで集団的な利己心をひたむきに追求することに対する「防波堤」となる(⇒非結果主義的アプロ―チ)という点でも、カント主義と同一です。

 「人間の権利」として社会的に認められる権利は「伝統的なもの」にとどまることなくその後増加していきました。そして今日では、「権利ベ―スの」考え方が広がってきています。あとで紹介する「権利としての正義」はそのことを象徴的に示しています。

 

ブリッジ概念としての「正義」概念の多義性

 上で述べてきた規範はいわば善悪ないしは正誤を判断するための基準としての「伝統的な」道徳規範です。何故にあえて「伝統的」という形容詞を「冠」したかといえば、社会状況が複雑化しかっての規範だけでは律しきれない現象が数多く出現してきたからです。もちろんそのような現実に対して功利主義や義務論も「進化」を遂げ現在ではその内容をヨリ豊かなモノとしてそれなりの「対応」をしてきていることは「事実」ですが、それ以外にも、近年では、新しい現象に「直接」対応するモノとして「新しい」概念が道徳「原理」として脚光を浴びてきています。正義(すなわち、「人間の行為や制度の正・不正の評価基準」)とはなにか? という問題、がそれです。

 この「概念」としての「正義」概念自体は全く新しいモノではなく、それまでの規範原理を「摂取」して構築されたモノです。だが、それは、善悪や正誤とは若干異なる次元でモラリティを問題にしている、という点では、やはり「新しい」道徳「原理」であり、Bowieは,(公平,権利などの概念も含めて)「正義」の概念を上記の一般的な(「伝統的な」)2つの倫理理論と特殊な問題との空白を埋めるものとして位置づけ、それらを“ブリッジ概念”と呼んでいます。

 但し、この「正義」は現在の倫理学ではいくつかの視点から取り上げられ、従って、その解釈は多岐にわたっています。

 たとえば、そのような原理としてなにに注目するかによっていくつかのアプローチが可能であり,事実,様々な思想が提起されてきています。功利主義によれば,なにが正義であり不正であるかを決定するのは、究極的には,幸福の最大化であり、全体的福祉や経済的効率などの社会的効用が究極の価値となります(功利としての正義)。しかしながら、これに対しては、多数決原理(民主主義)と功利主義が「セット」として用いられると、多数者が少数者を犠牲にすることが常に正当化され、一部の人の犠牲のうえで全体の人が利益を得ることが功利主義の立場では正義となる、との「批判」があり、その為に、平等としての正義(公正としての正義)が問題提起されることになり、権利との関連で正義が論じられることもあるし、自由としての正義が強く主張されることもあります。

 不平等な取扱いを正当化するような差異は人間には存在しない,と主張するのが平等主義者です。このような立場は,伝統的には,「等しいものは等しく取り扱うべし」という自明の公理として知られてきました。ただしこれはきわめて形式的な概念(規定)であり,その実体はなにも示されていません。したがって,そのような「平等」の基準として様々な原理が提供されることになります。たとえば,「各人の功績に応じて」,「各人の努力に応じて」,「各人の必要に応じて」は,その代表的な原理です。これらはいずれも唯一絶対的なものではなくきわめて(特殊な事情のもとで正当化されることがある)「便宜的なもの」です。

 またすべての人間は若干の基本的な点において平等である、との仮定にもとづいて,正義が論じられることもあります。平等主義的正義論です。この考え方としては,まず、財貨やサービスは人々の個人的差異に関わりなく平等に配分されるべきである,と主張するラジカルな立場があります。ただし今日では多くの平等主義理論はなんらかの形で修正され(be qualified)てきており,そのために様々な見解が展開されています。

 そして現在最も影響力ある平等主義的理論として知られているものの1つが(功利主義を拒否した)J.RawIsのそれであり、それは、特に、「公正としての正義」として称されることがあります。

 このようなRawIsの反功利主義的正義論は倫理理論においても『正義論』の出版以降批判されるとともにヨリ一層「発展」させられ、目的論的な功利主義的正義論との「対立」が鮮明になっていきました。そのような潮流は、今日、それらが個人の基本的な権利・人権を究極的な価値として尊重するために、「権利論的正義論」として総称されることがあります。但し、その内容は、基本的には、2つの方向に「二極分解」しています。 

  第1の方向は、平等への権利を重要視する「平等主義論的」権利論的正義論です。これは、Dworkinに代表されます。

 Dworkinの平等論は、(生来の才能の相違や自然的・社会的偶発性から生じる財の不平等は是正の対象になるが、各人が自分の人生計画を自由に追求した結果として生じる格差に関しては、画一的な平等化を強要してはならない、という)「資源の平等」として知られていますが、その後、彼は、コミュニタリアリズム(後述)の批判の意図を汲み取る形で「友愛の共同体」と「リベラルな平等」を組み合わせた独自な平等論を構想するに至っています。

 権利論的正義論の第2の方向は自由への権利を重要視する「自由擁護論的」権利論的正義論です。この代表的存在はR.Nozickであり、彼の思想が、正義を自由と同一視し、他人に干渉されずに自分自身の選択に従って生きていくことが自由であり正義である)、と考える自由主義的正義論(「自由としての正義」)を象徴するものとみなされることがあります。

 自由主義的正義を主張する人々によれば,人間は労働力を所有し自由にそれを適用する基本的な権利を有しています。そしてこの権利は,たとえその行使がその社会のなかで不平等な結果(報酬)をもたらすとしても,尊敬されなければならないものです。人間という存在はそれ自身が目的であるが,それは決して平等な経済的報酬(reterns)の存在とは結びつかないのです。

 なぜならば,我々は経済的財貨やサービスの生産に対して全く同一の貢献を為しえないからです。経済システムに対する人々の貢献が自由な選択のもとでおこなわれるものであるならば,それが経済的便益と負担を個々人の間に配分し差別するための「モラル的に適切なベース」としてみなされるのではないか―――これが自由主義的正義論の立場です。

 ただし、この理論には社会的経済的に恵まれない人々を不正に取り扱うことになる,との批判があります。自由主義のもとでは,人々の財貨のわけ前は,その人がなにを生産することができるのかあるいは他の人々が哀れに思ってなにを与えるかを選択するか,に依存しています。しかし現実には,経済に貢献する人々の機会はかなり不平等ではないのだろうか。良い環境に生まれた人と不幸な環境に生まれた人の教育の機会は必ずしも同一に開かれているわけではなく,そのことが能力の展開に大きな影響を与えているのではないだろうか。この場合には,むしろヒューマニティというベーシックな権利が必要なのではないか(「権利としての正義」)。これがその批判の内容です。

 自由主義に対して「一定の」反対の立場を表明する理論として近年注目されてきた考え方があります。コミュニタリアニズムがそれです。これは元々RawIsの正義論を1980年代に入って批判した人々の総称であり、「共通善」を主張するM.Sandel、「ロ―カルな共同体」を提起するA.MacIntyre、「分配の多元主義」を提唱するC.Tayler、「複合的平等(分権化された民主的社会主義)」を呼びかけるM.Walzer、が代表的な論者です。

 この立場では,人間は共同体の価値(communal values)を内的に具現したものであり,共同体の生活を通してそれぞれの善(good)を追求することが人間にとって最も相応しい生き方となります。

 コミュニタリアニズムの発想によれば,正義は社会生活においてそれほど中心的な位置を占める徳ではありません。ただこのことは「正義」を全く否定することを意味するのではなく,正義の基準は共同体の内部で生まれ発達されるものなのであり、すべてのものは共同体の価値から派生するのであり,慣習、伝統、忠誠がコミューン理論のなかでヨリ重要な役割を果たしている、ということになります。

 「人間は自己解釈的で物語的存在であり、過去、現在、未来をみずからのうちに統一しつつ、解釈と会話を重ねて生きている。」 このようなコミュニタリアニズム的理解は、「個人は社会関係から離れて、それ自身として自分自身の所有者であり、自分自身の意志にしたがって善を解釈して生きていく」と観念してきた「自由主義の哲学」、と全く異なるモノです。

 「すべての自我」は、「負荷な自我」「遊離せる自我」ではなく、「一定の社会関係のなかに生まれ、そこで育まれ、人格形成をおこない、目的を付与され生きている」──── これがコミュニタリアニズムの基本的立場です。(コミュニタリアニズムに関しては、藤原保信 『自由主義の再検討』岩波新書、1993年を読んでください。)

 このように概観してくると、現在では、あらゆる道徳規範が何らかの形で権利(従って、義務)との関連で論じられるようになってきていることが確認されます。言葉を換えて言えば、現在の権利(従って、義務)概念には過去から現在まで問題にされ取り上げられてきた道徳「原理」が「凝縮」されているのであり、単に個人だけでなく企業をもモラル主体として考えるビジネス倫理学においては、そのような「権利ベ―スの考え方」が、特に、重要な意味を持っているように思われます。

 このことは、我々が、権利ないしは義務を取り上げて問題にするならば、「モラル主体としての企業に適用されるモラル規範」のほぼ全体を論じることができる、ということを意味しているのではないか、と考えているのですが・・・。