モラル主体としての現代企業


作成日:98/08/26


 



 倫理学「本来の」発想では、道徳規範が適用される対象はあくまでも個人であり、このことは、基本的には、応用倫理学にも妥当します。しかし、ビジネス倫理学の発想に基づくならば、倫理学「本来の」発想だけでは不十分です。個人レベルだけでなく、制度や組織のレベルの倫理上の諸問題も射程に入れている学問としてのビジネス倫理学にとっては、個人だけではなく企業という組織(体)も道徳規範が適用される対象となるのであり、ここに、「モラル主体としての企業」という概念が生じてくる必然性があります。だが同時に、企業はモラル主体となりえるのであろうか?という疑問も当然に生まれてくることになります。

 企業と人間の類似性に着目した発想は古くからありますが、企業や企業のような主体は、自分自身によって、明白な意図を有した行為者であることの条件を満たすことができるしまたそうしているのであり、それが故に、それはモラル原則やル−ルが適用される完全な対象としてみなされるべきである(したがって、企業は自分がしていることあるいは失敗したことに対してモラル的に責任をとりえる)、と主張するのが、コ−ポレ−ト・モラル・エ−ジェン−・セオリ−(別名、モラル・パ−ソンとしての企業論)です。

 そしてこの最も純粋なタイプが、近年では、1979年に、 P.French によって主張されました。企業は単なる「法人」ではなく、企業は「生身の」人間と同じようにモラル主体である、という考え方、がそれです。

 French の発想は、簡潔に要約すると、次のような論法からなっています。「もし企業が主体であるならば、それは同時にモラル主体でもある。なぜならば、主体であるモノはすべてモラル主体であるからである。従って、企業が果たして主体であるのかを証明することが課題となってくるが、その証明は難しいことではない。というのは、主体=意図をもって行動する存在、という方程式がすでにあるからである。そしてこの方程式を前提とするならば、企業は意図をもって行動していると考えられるために、企業はモラル主体である、という結論が導きだされることになる」、と。

 ここに、French 流の「コ−ポレ−ト・モラル・エ−ジェンシ−・セオリ−」が成立するか否かは、「企業に意図がある」ということを証明できるか否かにかかっている、ということがわかります。この点、French の考えでは、企業の行動は企業自身によって意図されたものです。なぜならば、彼によれば、すべての企業が企業内意思決定構造(Corporate Internal Decision Structure :CID構造)を有しているという「事実」によって、そのような企業の意図を証明できるからです。

 しかしながら、この French の発想に対しては、企業は人間には認められている投票の権利を付与されていない、という点で、人間とは異なる存在である、という単純な批判から、意図の有無によって企業の主体性を認めることはできない、という根本的な批判まで、様々な批判が提起されてきました。そのような批判のなかでは、特に、企業がその企業のル−ルに従って行動しているとすれば、そのような行動には(ゲ−ムの規則に従って動いているプレイヤ−と同じように)意図があるとは言えないのではないか、という批判、そしてまた、ネズミを採る猫の行動やソ−トするコンピュ−タの動きにはある種の意図が認められるが、それらをモラル主体としてみなすことはできない、という批判が決定的なモノであり、事実、それらは French の発想の矛盾を示すモノとして良く例示されています。

 特に、Ladd の思想は(French に代表される「モラル・パ−ソン説」とは逆に)企業のモラル主体性を否定するアプロ−チです。このアプロ−チの基本的立場は、企業はその構造そのものによってコントロ−ルされているために、モラル上の自由を行使することができない、というものです。企業には自由意思が存在しないということを根拠として、企業がモラル主体であることが完全に否定されることになるわけです。

 「企業はある種のモラル・パ−ソンであるが・・・・・文字通りの意味での『モラル・パ−ソン』ではない。」−−− これが French の発想に対する(理論的な根拠に基づいた)極めて常識的な評価です。

 但し、上述の評価は、逆に言えば、企業をモラル主体と見なせるのか? という問題を巡っては、(2つの相対立する見解に代表される如く)いくつかの見解が提示されていますが、(企業を人間と完全に同一視することはできないが、一定の意図を有する社会的存在としてモラル原則や規則が適用される対象である、という意味での)「なんらかの意味で」企業をモラル主体として位置づけることが、今日のビジネス倫理学界のなかでは、支配的な「流れ」となってきている、ということを示しています。

 しかし同時に、どのような意味で、企業はモラル主体なのか、というヨリ具体的なレベルの問題となると、いまだ未解決な問題が多すぎるというのが「現状」です。例えば、K.Goodpaster は、 企業は通常の人間と同じ様にモラル責任を持つ、と積極的に主張し、いわゆる「モラル・プロジェクト論」を展開して、議論を呼びました。

 また Donaldson は、企業をモラル主体としてみなすために必要な条件を、次の2つに絞り、それらを試論的に展開しています。@モラル的理性をもって意思決定をおこなえること、A眼に見える結果としての(overt)企業行動ではなく、(その前提にある)政策やル−ルの構造をも意思決定のプロセスにおいてコントロ−ルできること、がそのような条件です。

 そして上述の条件を現実に当てはめて検討すると、我々は、Donaldson の判断に従う限り、そのような意味でのモラル主体性をほとんどすべての企業のなかに見いだすことができることになります。なぜならば、人間が完全にモラル能力を備えていなくともモラル主体とみなされているという「現実」を考えると、多くの企業は上記の条件を完全ではないが「必要な程度」有している、と判断できるからです。

 Donaldson によれば、上述の条件を満たす企業はあくまでも、モラルパ−ソンではなく、モラル主体としてみなされるべき存在です。企業がモラル理性を用いることができるということは、自動的に、企業が人間に備わっている他のモラル上の特性を有している、との結論に結びつかないのであり、企業のモラル主体性は特殊な種類のそれなのです。

 かくして、Donaldson の「分析枠組」と「現状認識」に従えば、小企業であれ大企業であれ、その企業が2つの必要条件を満たしているならば、それはモラル主体とみなされるのであり、事実、現在では、ほとんどすべての企業に対してモラル責任を問うことが可能となります。企業はモラル主体なのです。

 とすれば、改めて、次のことが課題となってくると思われます。企業をモラル主体とみなすことができるならば、そのようなモラル主体性の内容を、ヨリ具体的なレベルで、いかに把握すればよいのか、という問題がそれです。Donaldson は、この点、企業のモラル上の義務(責任)を明示することによって、そのような課題に答えようとします。

 Donaldson によれば、企業のモラル上の義務は「直接的なもの」と「間接的なもの」に分けられます。

 直接的な義務は明示的にフォ−マルに特定されているものであり、株主、従業員、納入業者、顧客、等々の企業と直接にビジネス上の関係を有する人々に対する義務です。これらの義務は契約や法令として明示されているので、処理が容易ですが、これに対して、間接的な義務はフォ−マルに明示されたものではなく、企業と直接にビジネス上の関係をもたない人々(例えば、競争相手の企業、地域共同体、大衆)に対して負う義務です。

 間接的な義務は、直接的な義務とは異なり、これまで必ずしも注目されてはきませんでした。確かに、間接的な義務として、公平に競争する義務、地域社会を公害から守る義務、大衆を傷つけない義務、等々が知られていますが、企業が、誰に対して、いかなる間接的な義務を、どの程度、有しているのか、あるいはそれらを倫理的に正当化するものは何なのか、等々に代表される基本的な問題は依然として未解決なままに置かれてきたのです。しかしながら、企業の義務、特に、間接的な義務を明示しなければ、現実的な問題として、モラル主体としての企業のモラル責任を問うことはできないことになります。

 これが Donaldson の構想です。要するに、Donaldson は旧い古典的な企業像を前提にして展開された理論構築は非現実的であり現在の企業の在り方を正当化できないことを主張したのす。我々は、Donaldson の主張を、これまで当然とされてきた在り方としての企業「観」のもとでは、今日では、企業は組織として存続し得ないのではないか、との問題提起として受け止めるべきでしよう。