ス テ イ ク ホ ル ダ − ・ マ ネ ジ メ ン ト




1  ビジネス・エシックスとは何か

 今日、企業の在り方が根本的に問われ、新しい「ル―ル」のもとでの企業経営が望まれています。ただし具体的にどうすれば企業の在り方を変えることができるのか? と問われると、返答に困るのも「事実」であり、様々な学問がそれに対する回答を求めて試行錯誤を続けているのが現状ですが、そのような学問の1つとして、経営学と倫理学が「結婚」して生まれた、ビジネス・エシックス(Business Ethics)、があります。企業経営と倫理(道徳)は相容れないものである、という「神話」がこれまで長期間にわたって企業社会を支配してきたことを考えると、ビジネス・エシックスが学問として確立してきたことは「画期的な」出来事であると言えるでしよう。
 
 新しい学問はそれなりの社会的必然性のもとで生成・確立するものですが、このことはビジネス・エシックスにも当てはまります。
 
 ビジネス・エシックスが独立した学問分野として形を整えはじめたのは、アメリカを例としてあげると、1980年代に入ってからであり、1985年にビジネス・エシックスは1つのアカデミックな分野として認められるようになってきました。
 このような背景には、アメリカの個別企業のなかで、1970年代後半頃から(特に1980年代以降)、自己の行動を自主的にモラル的に高めていこうという動き−−−これは後に「モラル改革運動」として総称されるようになりました−−−が拡がっていったという「現実」があります。そのモラル改革運動には次のような4つの「特徴」がありました。
1)ビジネスと倫理は正反対なものである、という前提の拒否、
2)ビジネス組織の幅広い「社会的」責任を強調する、イッシュ−・マネジメントの出現、
3)ビジネスをモラル化する手段としての政府規制の拒否、
4)組織としてのモラル行動の改善を目指した統制手段の探求。
 
 このことは相次ぐ企業絡みのスキャンダル(例えば、大がかりな買収事件、不法な政治献金、航空機災害の多発、欠陥自動車に代表される手抜き生産の発覚、等々)に対して、企業が対応を迫られた「結果」ではありますが、その後次第に、資本主義企業活動にも倫理的(モラル的)なものが必要である、という認識が生まれ拡がっていく「契機」ともなりました。そして今日では、そのような認識及びそれを反映した「一定の」行動は決してアメリカ企業だけに固有のものではなく、ヨ−ロッパの多くの国々においても見られるようになり、また日本でも「企業社会における倫理の在り方」に大きな関心が寄せられるようになってきました。
 
 このようにビジネス・エシックスはアメリカにおいても日本においても、企業の非倫理的行動(=会社の不祥事)の多発という「ネガティブな」現象を介してではありますが、「企業の在り方」が問われるなかで生じたものであり、ヨリ具体的にいえば、企業は社会的存在であるといわれる場合、その「社会性」とはいかなる意味なのか、が問われるなかで、ビジネス・エシックスは学問として生まれ「市民権」を得てきたのです。それ故に、ビジネス・エシックスは(かって1970年代に流行した)社会的責任論の流れの中で捉えられることがあります。だがそれは「皮相的な」認識であり、たとえビジネス・エシックスにそのような「一面」があることを否定できないとしても、ビジネス・エシックスは社会的責任論とは一線を画する学問です。従前の社会的責任論では企業の在り方を good な方向へと変えることはできない、という「厳しい」現状認識のもとで生まれてきたのがビジネス・エシックスだったのです。
 ビジネス・エシックスは現在の我々にいかなることを問いかけているのでしようか。
 

 ビジネス・エシックスの基本問

 ビジネス・エシックスは応用倫理学の1つです。応用倫理学としては、他に、バイオ・エシックス(生命倫理学)、環境倫理学、等々がすでに社会的に認知されています。倫理学とは、ものごとの「善悪」「正誤」を考える学問であり、人間社会の誕生以来、我々の生き方に大きな影響を与えてきました。そのような歴史(実績)があるのに、いまなぜ「新しい」(応用)倫理学が必要になってきたのでしょうか。それは、これまでの「判断基準」では対応できない問題が次々に出現してきたからです。例えば、医療技術の発達は臓器移植を可能にし、人間の「死」の基準を変えました。心臓死から脳死へと。だが「脳死」は誰によっていかなる基準で「判定」されるのでしょうか。人間の「生と死」を巡って様々な議論が展開されています。また、自然環境の破壊がこれまでの「予想」を遙かに超えて進みつつある現状に対して、我々人類が「種」として生存していくためには限りある自然環境といかに「賢く」共存していけばよいのか、が大きな問題となり、現在−−−次世代への責任を含めて−−−「新しい」対応が求められるようになってきました。このような我々の既存の知識体系では処理できない(従来の価値基準が意味を持たない)多数の問題の出現が「応用」倫理学という「新しい」学問領域を必要としているのです。
 
 このことは企業とその活動(⇒ビジネス)にも当てはまります。企業は我々の生活にとって不可欠の存在ですが、本来から言えば、それは人間活動の「特殊な」領域であり、いわば我々の場(市民社会)の「一」部分を構成する存在にすぎないものであり、との認識が「一般的」であり、そのように理解してきてもそのことによって(市民社会全体に大きな影響をあたえる、という意味での)「大きな」問題は−−−もちろん、資本家と労働者の間の「利害対立」に関連して、深刻な問題があり、それは現在も続いていますが−−−と生じなかったのです。しかも企業の「自由な」活動の成果として、我々は「大きな」利益(⇒生活水準の向上)を享受してきたために、いわば「餅は餅屋」的に、企業活動は専門家である企業家(⇒経営者)に任せておけば「間違いがない」という考え方が「大方の」意見でした。
 
 しかし「そのような考え方は間違いではなかったのか」という「反省」が次第に広がってきました。これは、企業社会(⇒ビジネス)が市民社会を次第に大きく「蚕食」し、企業本位社会といわれるように、我々の生き方のあり方を決定的に規定するようになるにつれて段々と強くなり、更に加えて企業活動が我々の生活の様々な側面に「悪」影響を及ぼすことが様々な出来事(企業の不祥事といわれているもの)を介して明白になってくると、大きな「流れ」となってきました。そしてここに企業のあり方を何らかの形で「統制・制御」しなければならない、という「思想」が生まれてきました。もちろん、これまでも企業活動は政府(⇒法律)によって規制され、一定の成果を上げてきました。しかしそれだけでは不十分である−−−これが現在の「支配的な」現状認識なのです。逆に言えば、それだけ企業の存在が「巨大なもの」になってきたということなのであり、「新しい」ル−ルのもとで企業活動を展開していかなければ我々の市民生活そのものが「破綻」してしまうのではないか、との「恐れ」が現実化するようなところまで事態が進んでいる、ということなのです。

 モラル主体としての現代企業

 上記のような現状のなかで生まれてきたのが(応用倫理学の1つとしての)ビジネス・エシックスです。このビジネス・エシックスの「新しさ」の1つは企業を「モラル主体」と見なすことにあります。これまでの倫理学の発想ではモラル主体はあくまでも個人(自然人)としての人間でしたが、ビジネス・エシックスによれば、組織体である企業もモラル主体であり、その組織体に「モラル主体としての実体」を与える方途を考えることが課題となってきます。我々は、この点に、ビジネス・エシックスの学問としての基本的性格(応用倫理学一分野としてのビジネス・エシックス)そしてその発想の「斬新さ」を確認できますが、同時に「モラル主体としての現代企業」観の妥当性(経営学的意味)の検討が要求されることになります。
 
 企業と人間の類似性に着目した発想は古くからありますが、企業という主体は、自分自身によって、明白な意図を有した行為者であることの条件を満たすことができるしまたそうしているのであり、それが故に、それはモラル原則やル−ルが適用される完全な対象としてみなされるべきである(したがって、企業は自分がしていることあるいは失敗したことに対してモラル的に責任をとりえる)、と主張するのが、コ−ポレ−ト・モラル・エ−ジェン−・セオリ−です。そしてこの最も純粋なタイプが、近年では、1979年に、 P.フレンチによって主張されました。企業は単なる「法人」ではなく、企業は「生身の」人間と同じようにモラル主体である、と。

 フレンチの発想は、簡潔に要約すると、次のような論法からなっています。もし企業が主体であるならば、それは同時にモラル主体でもある。なぜならば、主体であるものはすべてモラル主体であるからである、と。企業をモラル主体と見なせるのか? という問題を巡っては、(2つの相対立する見解に代表される如く)いくつかの見解が提示されていますが、現在では、(企業を人間と完全に同一視することはできないが、一定の意図を有する社会的存在としてモラル原則や規則が適用される対象である、という意味で)企業をモラル主体として位置づけることが、今日のビジネス・エシックス学界のなかでは、支配的な「流れ」となってきています。但し、どのような意味で、企業はモラル主体なのか、というヨリ具体的なレベルの問題となると、いまだ未解決な問題が多すぎるというのが「現状」です。但しこの点に関しては、つぎのような(T.ドナルドソンに代表される) 有益な問題提起も為されています。
 
 ドナルドソンに従えば、「すべての企業がモラル主体なのか、あるいはそうではないのか」という問題提起は間違いであり、彼の発想では、「いかなる企業がモラル主体であり、いかなる企業がモラル主体ではないのか」、と問うべきである、ということになります。とすれば、このことは、必然的に、次のような疑問を生み出すことになります。「モラル主体としてみなすために充足すべき条件とはなにか?」、と。
 
 ドナルドソンは、企業をモラル主体としてみなすために必要な条件を、次の2つに絞り、それらを試論的に展開しています。
@モラル的理性をもって意思決定をおこなえること、
A眼に見える結果としての企業行動ではなく、(その前提にある)政策やル−ルの構造をも意思決定のプロセスにおいてコントロ−ルできること。
 
 上述のようなドナルドソンの「分析枠組」に従えば、小企業であれ大企業であれ、その企業が2つの条件を満たしているならば、それはモラル主体とみなされることになります。そして彼の「現状認識」に拠れば、現在では、事実上ほとんどすべての企業に対してモラル責任を問うことが可能なのであり、企業はモラル主体である、との結論がでてきます。


モラル主体としての現代企業に適用されるモラル規範

 個人が自己の行動ないしは決定を「倫理的に」正当化する場合の「拠り所」として、通常、次の3つを指摘することができるでしよう。@慣行、A原則(⇒規範)、B倫理テスト。これは「個人」を念頭においたものでありますが、企業をモラル主体として見なす立場に立てば、そのことは、基本的には、企業という組織体にも妥当することになります。それでは、モラル主体としての企業に適用されるモラル規範としていかなるものがあるのでしょうか。
 
 実践の規準となる規範としていわば「常識化」している倫理理論は、第1に、(結果が良ければその行為は良いとみなす)結果主義的アプローチ(目的論)であり、第2に、(正しいか間違っているかは行為の結果だけではなくそれ以上のなにかによって決定される,と考える)非結果主義的なアプローチ(義務論)です。そして前者はさらに,(自分自身のためだけの結果を考える)エゴイズムと(影響をうけるすべての人々のための結果を考慮に入れる)功利主義,に分けられ,後者ではカント主義と「一応の義務」論がよく論じられています。
 
 また、カントの義務論を補足するものとして自然法説(権利の倫理学)があります。この思想の歴史は古く、したがってその解釈は多様ですが、人間が作った法律のうえに、ある客観的なモラル秩序(「自然法)」が存在し、それが支配者のパワ−を制約する、というのが(17世紀以降の)基本的な考え方であり、これが「権利」という考え方と密接に結びつくようになっていきました。別の表現をすれば、自然法は政府に正義を要求するが、被統治者に権利を与えたのです。人間には、人間であるが故に所有する権利(⇒人間の権利)−−−例えば、生命、自由、所有、の権利−−−があるのであり、そのような権利を認めることだけが政府の仕事なのです。そしてこのような「発想」はその後「社会契約説」という形で広く展開されていくことになりました。
 「人間の権利」として社会的に認められる権利は「伝統的なもの」にとどまることなくその後増加し、今日では、「権利ベ−スの」考え方が広がっています。(後述の)「権利としての正義」はそのことを象徴的に示している概念です。
 
 上で述べてきた規範はいわば善悪ないしは正誤を判断するための基準としての「伝統的な」道徳規範ともいうべきものです。何故にあえて「伝統的」という形容詞を「冠」したかといえば、社会状況が複雑化しかっての規範だけでは律しきれない現象が数多く出現してきたからです。もちろんそのような現実に対して功利主義や義務論も「進化」を遂げ現在ではその内容をヨリ豊かなものとしてそれなりの「対応」をしてきていることは「事実」ですが、それ以外にも、近年では、新しい現象に「直接」対応するものとして「新しい」概念が道徳「原理」として脚光を浴びてきています。正義(すなわち、「人間の行為や制度の正・不正の評価基準」)とはなにか? という問題−−−これがそのようなものです。
 
 「正義」概念自体は全く新しいものではなく、それまでの規範原理を「摂取」して構築されたものですがが、それは、善悪や正誤とは若干異なる次元でモラリティを問題にしている、という点では、やはり「新しい」道徳「原理」であり、「正義」の概念は上記の一般的な(「伝統的な」)2つの倫理理論と特殊な問題との空白を埋めるものとして位置づけられ、“ブリッジ概念”と呼ばれることがあります。
 
 但し、この「正義」は現在の倫理学では(伝統的な倫理理論を含めて)いくつかの視点から取り上げられ、したがって、その解釈は多岐にわたっています。たとえば,功利主義によれば,なにが正義であり不正であるかを決定するのは、究極的には,幸福の最大化であり、全体的福祉や経済的効率などの社会的効用が究極の価値となります(功利としての正義)。しかしながら、これに対しては、多数決原理(民主主義)と功利主義が「セット」として用いられると、多数者が少数者を犠牲にすることが常に正当化され、一部の人の犠牲のうえで全体の人が利益を得ることが功利主義の立場では正義となる、との「批判」があります。平等としての正義(公正としての正義)が問題提起されているのはそのためですし、権利との関連で正義が論じられたり(権利としての正義)、自由としての正義が強く主張されることもあります。
 
 更に言えば、自由主義に対して「一定の」反対の立場を表明する理論として近年注目されてきた考え方として、コミュニタリアニズム、があります 。この立場では,人間は共同体の価値を内的に具現したものであり,共同体の生活を通してそれぞれの善を追求することが人間にとって最も相応しい生き方である、と考えられています。
 コミュニタリアニズムの発想によれば,正義は社会生活においてそれほど中心的な位置を占める徳ではありません。ただこのことは「正義」を全く否定することを意味するのではなく,そこには、正義の基準は共同体の内部で生まれ発達されるものなのではなく、すべてのものは共同体の価値から派生するのであり,慣習、伝統、忠誠がヨリ重要な役割を果たしている、との理解があります。
 
 このように概観してくると、現在では、あらゆる道徳規範が何らかの形で権利(従って、義務)との関連で論じられるようになってきていることが確認されると思われます。言葉を換えて言えば、現在の権利(従って、義務)概念には過去から現在まで問題にされ取り上げられてきた道徳「原理」が「凝縮」されているのであり、単に個人だけでなく企業をもモラル主体として考えるビジネス・エシックスにおいては、そのような「権利ベ−スの考え方」が、特に、重要な意味を持っているように思われるのです。
 


 ビジネス・エシックスから見た企業の在り方(目的)

 企業をモラル主体として位置づけると、その目的の見直しが必要になってきます。このことがステイクホルダ−・セオリ−をビジネス・エシックス的に「再」構築するという「営み」のなかで提唱されてきました。

 ステイクホルダー・セオリーのキイ概念はステイクホルダーです。これはかって利害関係者として知られていたものに相当するものであり、今日それに新たな意味が与えられています。そのスティクホルダーとは、一般的には(=広義には)、ある特定の会社の活動によって利益を得たり害を受けたりあるいはその権利が妨害されたり尊敬されたりするグループや個人を指していますが、ヨリ狭義には、その会社の存続と成功に不可欠なグループを意味しています。その狭義のステイクホルダー概念に依拠すると、スティクホルダーはつぎのように整理されることになるでしょう。所有者(株主)、従業員、顧客、供給者、地域共同体、そして経営者。
 
 ステイクホルダーは言うまでもなく上述のものに限られるわけではなく個々の企業ごとに異なるでしよう。ただしどのような分類が試みられようとも、そこには「1つの」考え方が貫かれています。それは、そのようなステイクホルダーのなかで、経営者に、「特別な」役割が与えられていることです。ある特定のステイクホルダーが他のスティクホルダーと比べて優先されるべきではなく、それぞれのステイクホルダー間にはバランスのとれた関係が維持されなければならないのであり、そこに経営者したがってマネジメントの課題があることになります。このことを積極的に主張するのがステイクホルダー・セオリーです。
 
 そしてここに「企業の目的を再定義しなければならない」という発想がうまれてくるのです。ステイクホルダー・セオリーによれば、企業の目的は「ステイクホルダーの利害を調整する媒介項(vehicle)として役立つこと」です。これは(「企業の目的は株主のウェルフェアを最大化することである。なぜならば、そのような極大化が最大の善をもたらすからでありあるいはそれが所有権のためになるからである」、と主張する)株主理論(ストックホルダー・セオリー)との「対比」を意識した(いままでの解釈とは全く異なる)企業目的論です。
 このような企業目的観は、人間の尊敬(人間は決して何らかの目的に対する手段として見なされてはならないのであり、それ自身が目的であるべきである、というカントの格言)を考慮にいれたものです。ステイクホルダー・セオリーがカント的企業目的論といわれることがあるのはこのためです。

 ビジネス・エシックスが志向しているのはまさにこのことなのであり、そのような(企業の目的を再検討することによって「共通の目的」を提示しようとする)試みのなかに、ビジネス・エシックスそしてステイクホルダー・セオリーの意義がある、といえるでしよう。言葉を変えて言えば、企業の目的それ自体を倫理的に把握し直すこと ── これがビジネス・エシックスの問題提起であり、それは同時に、(社会的責任論が主張してきたような)経済的責任のうえに社会的責任そして倫理的責任を積み上げるという方式(段階的積上式発想)では、企業はgoodな方向に変らない、と従来の社会的責任論を批判してきたステイクホルダー・セオリー(⇒ビジネス・エシックス)が自ら提出した「解答」でもあります。


 新たな社会的合意の形成に向けて−−−「統合」社会契約論の意味

 社会は企業に対して無意識的に「あるべき」行動を求めてきました。これが企業と社会の間の「社会契約」です。現在、この社会契約「概念」により具体的な内容を与え、実践的にも耐えうるようなものにしようという「知的営み」が進んでいます。「統合」社会契約論と言われているものがそれであり、これはビジネス・エシックス的企業目的「観」の具体化の一例でもあります。
 
 「統合」社会契約論は、ドナルドソンと T.ダンフィ−によって、提唱されているものです。理性的な人間は、自分自身のモラル合理性に限界があることを認識しているが為に、(自分を含めた)経済コミュニティが自分たちで選択した手段を通して彼ら自身の倫理的行動規範を定めることを認めてくれるならば、そのような「社会」契約に同意することになろう、と。
 
 このような「統合」社会契約論の発想によれば、現実の社会契約は −−−経済的事象を機能上有効に律する規範的基準に参加する人々(⇒契約者)が同意するような一般的原則(マクロ社会契約)と、契約の当事者が属するコミュニティに(固有な)特殊な規範(ミクロ社会契約)の −−− いわば二重構造を有するものとなります。
 したがって、「統合」社会契約論では、マクロ社会契約の「限界」を補うものとして、ミクロ社会契約がそれなりに重要視されています。「経済コミュニティにみられるモラル上の多様性を認めかつそれらを、一定の限定付きだとしても、尊重しよう」とする「発想」、がそれであり、まさにこのこと(コミュニティ・レベルの規範の多様性に寛大であること)が「統合」社会契約論を伝統的な社会契約論や他のモラル理論から区別する「分水嶺」となっているのです。
 
 しかしながら、そのことは、決して、モラル相対主義や文化相対主義を「積極的に」主張するものではありません。なぜならば、コミュニティ・レベルの規範は、それが(地球規模で妥当する)ハイパ−規範と両立し、また異議申し立てと脱退の権利に支えられたインフォ−ムドコンセントにもとづき、そして更にまた規範間に対立が生じたときにはプライオリティ・ル−ルに支持されてはじめて、倫理的に義務的な規範、へと転化することになる、との「前提」があるからです。
 
 この「統合」社会契約論の発想に従えば、企業を、スティクホルダ−との間に各種の権利と義務を相互に請け負った、契約の当事者と想定し、その企業の「自由な」活動に一定の制約を課し、そのことによって(今までとは異なるが、何らかの「一定のル−ル」の下で)「自由な競争」を展開させる「途」を展望することが可能になってくるのです。
 


 企業をいかにしてモラル的存在へと変えていくのか

 企業をモラル主体として見なす立場から言えば、企業の在り方を変える主要な途は倫理規範を企業内に制度化することです。これが「企業の自主規制」と言われているものであり、企業自らが倫理綱領を制定しそれによって自己の行動をモラル的に規制することによって実施されることになります。しかしながら、その「自主規制」がそのままでは(すなわち、文字通り企業の自主性に委ねたならば)あまり有効に機能せず「然るべき」効果をあげ得ないということがアメリカの「モラル改革運動」によってすでに明らかにされています(これに関しては、拙著『現代企業のモラル行動』千倉書房を参照してください)。このことは、何らかの「外圧」が必要である、ということを意味しています。
 
 自主規制とは逆に企業をモラル主体と見なすことに反対の立場をとれば、企業の在り方を変える方途として政府による「社会的規制」が重要視されることになるでしょう。「規制」というコトバには、現在、一種の「アレルギ−反応」が見られ、規制は「諸悪の根元」であるかのような「世論」が形成されていますが、これは「経済的」規制と「社会的」規制を峻別していない「乱暴な」議論の結果であり、社会的規制は我々の社会に「必要不可欠な」ものです。但しそのような理解を前提にしても、これは「両刃の剣」であることには変わりありません。なぜならば、そのことによって政府のパワ−が「巨大な」ものとなることは避けられないからであり、特に、政治(家)に「良識」を期待できない状況の下では「危険」は増幅されることになるでしよう。
 
 それではどうすればよいのか。我々は、ここに、第3の途として、企業がステイクホルダ−ズの権利・義務を実現しているか否かを判断するような「企業活動評価基準」を新たな構想のもとで構築し運用する方向を模索していくことが「必要」である、と主張する現実的基盤を見いだすことができるように思われます。これは、「モラル主体としての」企業の目的が適切に実現されているか否かを「判定」する「社会的」評価であり、一種の「社会的制御」でもあります。
 
 ビジネス・エシックスは、すでに述べたように、ステイクホルダ−概念に新たな生命(意味)を与えてきました。このステイクホルダ−という概念は、それぞれのステイクホルダ−に権利・義務(正確に表現すれば、ステイクホルダ−の権利ないしは及びステイクホルダ−に対する企業自体の義務)が設定されることによって、道徳規範と結びつくことになります。したがって、つぎのような「構想」が可能となってきます。既存の様々な道徳規範をステイクホルダ−の権利・義務として「読み替え」る。そして、経営者がそのようなステイクホルダ−の権利・義務を実現する。その結果として、当該企業内でトラスト関係が生まれ、組織としての企業が維持されていくと同時に、そのトラスト関係(従って、企業)が再生産されるプロセスのなかで企業活動の「評価」指標が「抽出」されそれらを利用して企業活動を「社会的に」「制御」することができるようになれば、モラル主体としての企業が成立・維持・再生産されていくであろう、と。
 
 ここに、会社自体と多種多様なステイクホルダ−とのトラスト関係を築き維持する「特殊な」ステイクホルダ−としての経営者が、会社自体のエ−ジェント(代理人)として、展開する「意識的な」活動、が展望されることになります。これがステイクホルダ−・マネジメントです。



3  ステイクホルダ−・マネジメント

 ステイクホルダ−・マネジメントには、現代企業はステイクホルダ−企業である、認識があります。21世紀に突入した現代社会は文字通り転換期にあり、特に、1980年代以降に様々な領域において生じ始めた動きが大きな「流れ」となって我々に解決を迫っています。そのことを象徴的に示しているのが、例えば、ステイクホルダ−という概念であり、社会経済的現象の重要な局面において「ステイクホルダ−」というコトバ(term)が使われています。ステイクホルダーとは、簡単に言えば、利害関係者として知られてきた存在であり、ある特定の会社の活動によって利益を得たり害を受けたりあるいはその権利が妨害されたり尊敬されたりするグループや個人、ないしは、その会社の存続と成功に不可欠なグループを意味しています。例えば、所有者(株主)、従業員、顧客、供給者、コミュニテイ(地域社会).そしてマネジメント(経営者)。したがって、このような理解にたちますと、企業もステイクホルダ−としての次元を有する存在ととして把握されることになります。社会的・経済的・政治的な包括によって企業と利害関係を持つことになったステイクホルダ−の様々な権利と義務の相互作用(すなわち、契約)のもとで成立している存在−−−これがステイクホルダ−企業です。
 


 ステイクホルダ−ズに対する義務(ステイクホルダ−ズの権利)

 企業を「ステイクホルダ−企業」として位置づけますと、経営者の役割も「変化」してきます。経営者にとって最も要求されることは組織人格になりきりその組織の目的を実現することですが、ステイクホルダ−企業のもとでは、株主の代理人としてではなく、会社自体の代理人として、個々のステイクホルダ−の(道徳規範に裏付けられた)権利・義務を「誠実に」実現し、組織内にトラスト関係を生み出し、組織として企業を維持していくことを要求されることになります。この意味で、経営者は多彩な利害を有している多種多様なステイクホルダ−と会社自体との信頼関係を築き維持する役割を与えられている「特殊な」ステイクホルダ−なのです。
 
 とすれば、個々のステイクホルダ−に対していかなる権利・義務を認めるのか、ということが「大きな」課題となってくることがわかるでしょう。ここではコ−円卓会議で提示されたものを1つの事例として掲げておきます。その他、詳細については拙著『ステイクホルダ−・マネジメント』晃洋書房を参照してください。
 
《株主、投資家に対して》
・株主の投資に対して公正で競争力のある利益還元を図るために、専門経営者として企業経営に精励すること。
・法的及び競争上の制約を受けないかぎり、株主や投資家に対して関連情報を公開すること。
・株主または投資家の資産の保持し保護すること。
・株主または投資家の要請、提案、苦情そして正式な決議を尊重すること。

《仕入先に対して》
・価格の設定、ライセンシング(知的所有権の実施許諾)そして販売権を含む、すべての企業活動において公正と正直とを旨とすること。
・企業活動が圧力や不必要な裁判ざたによって妨げられることなく、公平な競争を促進するように努めること。
・仕入先と長期にわたる安定的な関係を築くように努めること。その見返りとして相応の価値と品質、競争力及び信頼性が得られる。
・仕入先と情報の共有に努め、安定した関係を維持していくために計画段階から参画させること。
・所定の期日にあらかじめ同意した取引条件で仕入先に支払うこと。
・人間の尊厳を重んじる雇用政策を実践している仕入先や協力会社(下請け)を開拓、奨励し、優先すること。

《競争相手に対して》
・貿易と投資に対して市場を積極的に開放すること。
・社会的にも環境保全の面においても有益な競争を促進するとともに、競争者同士の相互信頼の範を示すこと。
・競争を有利にするための疑わしい金銭の支払いや便宜を求めたり、関わっ たりしないこと。
・有形財産に関する権利及び知的所有権を尊重すること。
・産業スパイのような不公正あるいは非倫理的手段を用いて情報を入手することを拒否すること。

《従業員に対して》
・仕事と報酬を提供し、働く人々の生活条件の改善に資すること。
・一人ひとりの従業員の健康と尊厳を保つことのできる職場環境を提供すること。
・従業員とのコミュニケーションにおいては誠実を旨とし、法的及び競争上の制約を受けないかぎり情報を公開してそれを共有するよう努めること。
・従業員の提案やアイディア、不満そして要請に耳を傾け、可能な限りそれらを採用すること。
・対立が生じた際には誠実に交渉を行うこと。
・性別、年齢、人種、宗教に基づく差別を撤廃し、待遇と機会の均等を保証すること。
・ハンディキャップや障害のある人々を、それらの人々が真に役立つことのできる職場で雇用するよう努めること。
・従業員を職場において防ぎうる傷害や病気から守ること。
・企業の決定によってしばしば生じる深刻な失業問題に注意を払い、政府および関連機関並と協力して混乱を避けるよう対処すること。

《消費者に対して》
・顧客の要請に合致する高品質の商品並びにサービスを提供すること
・私たちの商取引のあらゆる場面において顧客を公正に遇すること。それには、高水準のサービス並びに顧客の不満に対する補償措置を含むものとする。
・私たちの商品及びサービスによって顧客の健康と安全が(同時に環境に悪影響を及ぼすことなく)維持され向上されるようにあらゆる努力を傾注すること。
・提供される商品、マーケティングおよび広告を通じて、人間の尊厳を侵さないこと。
・顧客の文化を保全し尊重すること。

《コミュニティに対して》
・人権並びに民主的活動を行う団体を尊重し、できる限りの支援を行うこと。
・政府が社会全体に対して当然負っている義務を認識し、企業と社会各層との調和のある関係を通して人間形成を推進しようとする公的な政策や活動を支援すること。
・健康、教育そして職場の安全の水準の向上に努力している社会的諸団体と協力し、地域社会の経済的福利の発展をめざして共にたたかうこと。
・持続可能な開発を促進・奨励すること。
・自然環境の保護と地球資源の保持に主導的役割を果たすこと。
・地域社会の平和、安全、多様性並びに社会的融和を支援すること。
・地域の文化を尊重しその保全に努めること。
・慈善寄付、教育及び文化に対する貢献、並びに従業員による地域活動や市民活動への参加を通して「良き企業市民」となること。



 企業活動をどうやって評価するのか

 以上簡単ですが、企業を巡るステイクホルダ−を、株主、取引企業、従業員、消費者、コミュニティ(地域社会)、に代表させて、それらのステイクホルダ−ごとに、ステイクホルダ−としての意味を確認し、そのステイクホルダ−にどのような権利があるのか、逆に言えば、それらのステイクホルダ−に対して果たすべき義務が企業にあるとすれば、それはどのようなものなのか、を整理してみました。上記以外にも、自然は「物言わぬ」サイレント・ステイクホルダ−であり、政府(社会的規制)は国民全体の福祉の向上を考えて企業活動に一定の制約を課すことがある、等々、企業と様々な利害関係を有する存在は他にもあることでしょう(このことに関しては、拙著『ステイクホルダ−・マネジメント』晃洋書房で詳しく説明されています)。

 繰り返すことになりますが、そのようなステイクホルダ−の権利を考慮して、会社の代理人(agent ) である経営者によって展開されるのがステイクホルダ−・マネジメントなのです。
 
 但し、ステイクホルダ−・マネジメントはそれで「終わり」ではありません。ステイクホルダ−・マネジメントは企業の利害関係者がステイクホルダ−として当事者意識を持って行動できるようになることによって「完結」することになります。そのためには、企業が個々のステイクホルダ−に対してそれらを本当にステイクホルダ−として見なして対応しているのか、の「確認」が必要になってきます。その「確認」の1つのデバイス(手段・方法)が「企業活動の評価」ですが、この場合には、今までとは異なる視点からの「評価」が要求されることになります。企業活動を評価するということはステイクホルダ−がステイクホルダ−として当事者意識をもって行動することなのであり、それによってはじめて企業は「真に」ステイクホルダ−企業として存続し続けることになるのです。
 
 さてそのような「評価」の在り方ですが、それに関しては問題提起されるだけでなく、現実にも少しずつ試行錯誤的に「新しい」視点からの評価が行われるようになってきました。例えば、アメリカでは、Social Accountability International が次のような評価基準を提示しています。
1)環境問題に取り組んでいるか
2)寄付をしているか
3)コミュニティに貢献しているか
4)男女を平等に雇用しているか
5)人種差別なく待遇しているか
6)従業員家族への福祉はどの程度か
7)労働環境は良いか
8)情報公開をしているか
9)武器を製造していないか
10)動物実験をしていないか
 
 日本では、企業の「社会貢献度調査」が、朝日新聞文化財団によって毎年実施されています。その評価項目は年度によって多少異なっていますが、以下のものが基本的な評価項目となっています
1)働きやすさ
2)ファミリ−重視
3)女性の活躍
4)公平さ
5)雇用の国際化
6)地域参加
7)地球にやさしい
8)学術と文化
9)福祉と援助
10)軍事関与の有無
11)情報公開
 
 また日本の「グリ−ンコンシュマ−・ネットワ−ク」は、次のような基準で、全国のス−パ−・生協・コンビニを調査し、その結果を『地球にやさしい買い物ガイド』として出版し公開しています。
1)環境・健康を考えた商品を取り扱っているか
2)包装対策はどうか
3)資源回収・リサイクルへの取り組みはどうか
4)経営方針に環境保全行動が織り込まれているか
5)PR・社会への働きかけは十分か
6)情報公開はどの程度進んでいるか
 
 このようにいくつかの新しい「視点」が、世界各国で、動き出しています。その他の実態については、『ステイクホルダ−・マネジメント』晃洋書房で詳しく紹介しておきましたし、現在の筆者の構想も提示しております。



4  ビジネス・エシックスを学ぶ意義

 なぜ、経営学を専攻するものが倫理学をあえて学ぶ必要があるのでしょうか。経営学を専門的に学ぶ経営学部は、基本的には、ビジネス分野の専門家を養成する「場」です。ただし、専門家も多種多彩であり、様々なタイプの専門家が育ちそして巣立っていきます。この場合、専門家とはどのような資質を備えた人材を意味するのでしょうか。
 
 我々の社会には様々な規範(倫理)が存在しています.そのような規範には時代の流れに左右されないかなり「安定した」ものもありますし、逆に時代の変化とともに「姿を消し」たり全く新しい価値観が広がっていくこともあります。そしてまたこのことは会社の「掟」にも当てはまることにもなります。経営はこのような価値観の変動のなかでおこなわれているものなのであり、たとえば、既存の規範を「是」として前提して展開される経営学教育も存在することになります。もちろんそれにはそれなりの意義がありますが、もし経営学教育がそのことだけに終始するならば、経営学そのものが社会的に認知されない、言葉を換えて言えば、学問的正統性を欠いた「存在」となってしまうでしょう。

 経営学教育が学問的正統性を「獲得」するためには「何か」が必要なのであり、その「欠けている何か」を提供するのがビジネス・エシックスなのです。経営の在り方は常にその存在意義を問われ続けているのであり、経営学教育が当然のこととして「前提」にしてきた「枠組み」(意志決定の前提となる価値観)が崩れ見直しが必要になっているのであれば、それを「再考」し「求められているもの」を指摘し提供するのがビジネス・エシックスなのであり、そのことによってプロフェッション教育(専門家の養成)に欠けているものを補うことが可能になってくるのです。つまり、専門家を「真の意味で」専門家に「鍛え上げる」ために必要なディシプリン(discipline)−−−それがビジネス・エシックスなのです。
 



作成日:2001/11/24