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以上書いてきたことをまとめると、最低限映画を成立させようと思った場合、
「シナリオもなく、役者もスタッフもいないで、自分の部屋で自分を撮り、なおかつ完成しても編集もせずに誰にも公開しない」
というものでも「映画」であると言い張ることが可能である、という結論に達しています。
なかなか凄いですね。書いた自分でも驚きを隠せません。
しかし、世の中に出てこない(出ようがない)だけで、案外こういう作品は眠っているのではないでしょうか。
しかし、それはそれで良いのです。
大事なのは、作品の出来よりも、自分が「これは傑作だ!」と思い込む純粋な心です。
他人がどう思おうと、自分だけは自分を信じ込むことです。
私は長い間、この心持ちを実践して参りました。
おかげで晴れやかな心を絶えず周囲に撒き与えてているようで、皆、言葉にこそ出してませんが、私に感謝しているのは手に取るように分かります。
とにかく、信じましょう。
「お前は幸せなやつだよな」という溜息交じりの友人の言葉の裏を読む必要などありません。
「おう、サンキューな!お前も頑張れよ!!」
笑顔でこう返せるようになれば、おのずから光が見えてくることもあります。
もちろん、見えない場合もありますが、それはそれ、これはこれです。
そして、最後になりますが、ある命題を投げかけたいと思います。
人はなぜ自主映画を撮るのでしょうか。
なかなか難しい命題です。
そこに自主映画があるから、というのは登山家じゃないので答えになりません。
っていうか実は、自主映画を撮ってるやつがそんなにいるわけではありません。
考えると、ほとんどの人が関わることもない自主映画を、一部の人が撮っているにすぎません。問題提起としては、人はなぜ自主映画を撮らないのだろうか、というほうが適格です。しかし、それでは話が進まないので、強引に解釈してみます。
一部の人間にしか興味がないことをやっている者は、多数から見れば変である、という法則があります。この法則に当てはめた場合、自主映画を撮る=変人の仲間入りといえるかもしれません。
どうなんでしょう。
ステキな変人を目指すというのも良いんじゃないでしょうか。
収拾がつかなくなってきたので、終わっときます。
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