このコラムの著者
囲碁・将棋の達人

吉田 純子

沖縄出身。将棋酒場「一歩」を経営している。趣味は将棋と琉球舞踊。棋力は初段。

将棋と出会ってから将棋酒場をオープンするまでと、そこに集う将棋好き達を紹介します。

掲載日:2006年4月17日 テーマ:趣味と教養 , 囲碁・将棋

「ああ言う棋 交友棋(こうゆうき)」 将棋界との出会い(1)

 「プロの将棋指し」という職業がある事を知ったのは、千駄ヶ谷の「ベリーズ」という名の小さなスナック。「将棋指し」のイメージは、賭け将棋をする人達の事だと思っていたが、「小生の職業はプロの将棋指しです」と自己紹介をしたのは20代前半の清々(すがすが)しい青年だったので、ビックリした。
 「プロの将棋指し」は彼だけではなく、大学受験の浪人生だと思っていた男の子も「プロの将棋指し」で、角の方でひとり静かにのんでいるのや、熱く議論をしているのも「プロの将棋指し」だった。ここはどうやら将棋指しの溜まり場だったようだ。
 私がイメージしていた「将棋指し」像とは全く違っていたので驚いたが、「プロの将棋指し」の実態が理解できず、「一日中将棋を指しているの?」とか、「将棋を指していないときは何をしている?」などと、初歩的な質問をしたら、「またか」という様な顔をしながらも、千駄ヶ谷には将棋界の大本山である「社団法人日本将棋連盟」があって、そこに所属している四段以上がプロ棋士と認められるという。 
少なくとも博打うちでないことは理解できた。
 私は、駒の動かし方やルールも知らないので、将棋を話題にする事は殆んど無く、音楽や趣味の話で盛り上がり、時には一緒に踊ったりもした。 
そうこうしているうちに、私の中で将棋指しのイメージが変わっていき、「将棋指し」から「棋士」と言う様になった。

「ベリーズ」の閉店は午前零時で、土曜日の零時解散はチョットもの足りないし、だからと言って新宿まで出掛ける気力は無い。
どうしょうか? と話し合っていると、プロ棋士の「小生の部屋で飲み直ししませんか?」の一言で、4〜5人がおしかけた。
棋士の住まいに入るのは初めてで、若い独身男性の部屋とは思えない程にこざっぱりしている。
皆が腰を下ろしたのを見て、手際よくウイスキー水割りセットとお煎餅が出てきた。
私達は「ベリーズ」の延長気分で飲んでいるのに、棋士は台所で肴を作っている。
なかなかの“ホスト”振りに驚かされっぱなしだった。明け方近くまで飲んでいたと思うが、いつの間にか皆で雑魚寝をしていた。

朝、目を覚ましたら、味噌汁の美味しそうな匂いがしてきた。
「飲んだ翌朝は味噌汁に限る」と言って、出してくれたのにもビックリ。
 テレビのスイッチを入れたら「NHK杯戦」の将棋番組が始まっていて、棋士がテレビを見ながら解説をしてくれている。私以外は棋士の解説に耳を傾けているが、駒の動かし方やルールが分からない私にはチンプンカンプン。 
画面は動きが少なく、私は退屈で「この番組って電波の無駄使いじゃあないの」と言って、ふて寝をした。
これが将棋界との出会いの始まりだった。


歩純

掲載日:2006年5月11日 テーマ:趣味と教養 , 囲碁・将棋

「ああ言う棋 交友棋」将棋を始める切っ掛け(2)

 棋士の部屋での飲み会を機にベリーズでも将棋が話題に上がる様になった。
 将棋界の話はそれなりに面白かったが、指し手の事になると相変わらずチンプンカンプン。そこで「将棋を始めませんか」と棋士に奨められたが、将棋は記憶力が良くて頭のいいヒトがやるものだと思っていたので、断り続けていた。
 私が将棋を拒否し続けるので、駒の動かし方やルールが分からなくても読める本と言って中平邦彦著の『棋士・その世界』を奨めてくれた。
 その本には、私が遭遇した事がない不思議な人種とその世界の事が面白おかしく描かれていたので一気に読み終えた。

 『棋士・その世界』のお陰で将棋界に興味を持つ様になり、他に面白い本はないかと尋ねたら、河口俊彦著の『対局日誌』を紹介してくれた。
『対局日誌』は将棋マガジンに対局風景を連載しているコラムを単行本にまとめたものだった。タイトルからして面白そうと思い読み始めたが、直ぐに躓いた。
 読み始めは良かったが、途中に棋譜や図面がでてきたので、又してもチンプンカンプン。今ならその部分を飛ばして読む事が出来るが、あの頃は全てを読まなくてはいけないと思っていたので、読み進める事ができないと言って本を返した。
 棋士に「残念だね。これは駒の動かし方とルールが分かれば、とても面白い本だよ」
と言われ、理解できないのが悔しくて、本を読みたいが為に駒の動かし方とルールを教わる気になった。今から考えてみると『新・対局日誌』は将棋を始めさせる為の一回目のエサだった様に思える。

 動かし方とルールがわかっただけで、理解できる様な内容ではなかった。
 諦めかけていたら、棋士に「折角駒の動かし方を憶えたのだから、本格的に始めませんか」と言われたが、まだその気になれなかった。
 今度は「小生に六枚落ちを勝ったら黄楊の駒をプレゼントしますよ」には、気持ちが揺らいだ。
 それは、黄楊が駒の材質では最高級だから。2回目のエサは黄楊の駒だった。
 六枚落ちとは、飛車、角行、桂馬(2枚)、香車(2枚)、六枚の駒を落とすハンディキャップ戦の事。
 こんなに駒を落とすなら、チョット勉強すればすぐに勝てると思い、欲が出たので本気で勉強したいと思った。
 将棋は「礼に始まって、礼に終わる」と言われている。
 駒の並べ方には、伊藤流と大橋流があるというのも初めて知った。
 駒を並べる時には上手が王将を所定の位置に置いてから、下手は玉将を置き、駒を並べ終えたら、「お願いします」と言って会釈してから始める。
 終わる時は負けた方が「負けました」と負けを認めて、お互いに会釈して終わる。
 先ずは礼儀作法から教わった。

「ああ言う棋 交友棋」女性将棋教室 其の一(3)

掲載日:2006年6月8日 テーマ:囲碁・将棋

 駒の動かし方は辛うじて覚えていたので、棋士は王将の詰まし方を教えてくれた。
 ところで、将棋は王将を取ると思っている人も多いと思うが、本来は王将を取るのではなく詰ます(動けなくさせる)ゲームだ。
 詰ますパターンを幾つか教わったが、気に入ったのは桂馬で王手をして詰ます『桂吊るし』又は『吊るし桂』というネーミングの詰まし方。
 将棋の戦い方を学ぶのに上手(強い方)が駒を落とす『駒落ち』という方法がある。
 駒落ちには定跡があるというので、早速六枚落ち定跡を教わる。
定跡を覚えたら直ぐにでも勝てる様になり、約束の駒が貰えると思ってワクワクした。ところが、教わった通りに指したつもりが、逆に『桂吊るし』で詰まされた。
『桂吊るし』で詰ますことは好きだけど、詰まされると気分が悪い。
1局の将棋が終わると感想戦(負けた敗因を探ること)をした後に、「次はどんな詰まし方が好きなの?」に「頭金です」(頭金とは金将で詰ますこと)と言ったら、今度は鮮やかに『頭金』で詰まされてしまった。
どうやら、私の好きな詰まし方で詰まされているようだ。
そのことに気がついた時、ムッとして思わず棋士の頭を叩いてしまった。
それと同時にプロ棋士の凄さを知った。

 駒は直ぐに貰えると思っていたのに、プロの凄さを知った途端に駒が遠のいて行くように思えた。ガッカリである。
 駒の動かし方からプロ棋士に教わってきたので、アマチュアの現状を私は知らない。そんな私に手を焼いたのか、将棋連盟の『女性将棋教室』に連れて行かれた。
 棋士は私を講師の棋士に紹介してすぐに帰ってしまったので、心細くなりもじもじしていたら、講師がにこやかな顔で「ここへどうぞ」と椅子をすすめてくれた。
 『女性将棋教室』の生徒は十数人で、講師は男性棋士が三人と女性棋士一人。
アマチュアの女性達が将棋を指しているのを見るのは初めてで、みんな強そうに見えた。

 『女性将棋教室』でも六枚落ちから教わった。
 今までは一人の棋士からしか教わっていなかったので、他の棋士からも教わればきっと勝てる様になると思い、やる気が湧いてきた。
 教室での私の勉強法は定跡を丸暗記するのではなく、一手一手の指す意味を教えてもらおうと決めていた。
駒を動かす度に「何故この駒を動かすのですか?」と質問攻めにした。お陰で定跡の意味がある程度理解できた。
 これで大丈夫、勝てると思い早速六枚落ちの実戦をお願いしたが、またしてもアッサリと負けた。今度は感想戦にも熱が入り、私からも質問するようになった。
 感想戦では私が有利で、もう少しで勝ちそうだったと言われたので、「もう一局お願いします」と再度、同じ講師の棋士に挑戦した。
矢張り勝てない「惜しかったね」と慰められた。
『女性教室』を紹介してくれた棋士に教室での事を話したら、「まさか、同じ先生に2局続けてお願いしていないでしょうね」と言われたので、「もう少しで勝てそうだったので2局目もお願いしました」と答えたら、棋士は「アチャー」と言って頭を抱えた。
教室ではどうやら複数の講師から一局ずつ教わるのが常識らしい。

「ああ言う棋 交友棋」女性将棋教室 其の二(4)

掲載日:2006年7月13日 テーマ:囲碁 , 将棋

 女性将棋教室(以下、女性教室)は水曜日の週一回。
 講師は山口英夫六段(当時)、安恵照剛六段(当時)、桐谷広人五段(当時)、の三人と女流棋士の多田佳子二段(当時)。
 先生方に教わるというよりも勝負と思っていたので、女性教室に出席する前に、最初に将棋を薦めてくれた棋士(以下、師匠)に六枚落ちを教わってから、通うようにしていた。
 山口英夫六段(以下、ヒデ先生)以外の先生方は、たまに勝たしてくれた。 
 六枚落ちでも勝たしてくれないヒデ先生に向かう時、今日こそは勝つぞと一段と気合が入ったものだ。
 女性教室は毎回、緊張と興奮で刺激的だったので、師匠に報告するようにしていた。
 話題はおもに私が負けた将棋の事で、その内容を説明しようとするが、棋譜があやふやなのでうまく説明ができない。
 師匠にチャンと伝わらないので、 お互いが困った。
 そこで、棋譜の取り方を教えてくれた。

 棋譜を取ろうとすると読みが中断して中々先には進めない。
 それでも、棋譜を取りながらなんとか指せるようになった。
 棋譜を見た師匠は、私の何処が駄目なのかが一目で分かったようだ。
 詰めが甘いとの事で、詰め将棋を解く事を薦めてくれた。
 先ずは『一手・三手詰め』の本を渡された。
 一手詰めは早めにクリアできたが、三手詰めは難しかった。
 それでも詰ます事が面白くて、通勤電車でも詰め将棋を解くようになった。
 詰め将棋に夢中になり、電車を乗り過ごして会社に遅刻した回数は数えられない。

 女性教室にも慣れてきて、隣席の先生と生徒のやりとりを見るゆとりも出てきた。
 隣は感想戦の最中のようだ。
 先生「ここをこうして指していたら、貴女の勝ちでしたよ」
 生徒「そのような手が分かれば谷川名人にも勝てるわよ。分からないから習いに来ているのでしょう」に、先生もタジタジである。
 生徒がヒステリックに怒鳴るのを見て、ここの生徒たちは皆気が強そうで、怖かった。 そういう状態なので、生徒たちにはなかなか馴染めず、私は生徒同士と指した事が無  かった。 
 私が孤立しているように見えたのか、ある日、古株らしき先輩が「将棋、指しませんか」と、優しく誘ってくれたのが嬉しくて「お願いします」と頭を下げた。
 六枚落ちを指してくれたが、将棋の内容は決して優しくは無かった。
 声を掛けてくれた先輩のお陰で、生徒たちに溶け込む事ができた。
 その先輩は、後に女性普及指導員第一号になり、女性教室をやめて20年経った今でも小堀のお母さんと呼んでお付合いをしていただいている。


ああ言う棋 交友棋」女性教室其の三(5)

掲載日:2006年8月11日 テーマ:将棋 , 趣味

 女性将棋教室には約3年間通った。
 ここでの3年間は、私の将棋の基礎を築いたといっても過言ではない。
 女性教室のカリキュラムは、六枚落ち、四枚落ち、二枚落ち、飛車香落ち、飛車落ち、角落ちの順に教わっていく。
 何故、駒落ちからなのかを尋ねたら、上手に駒が無いぶん隙ができるので、相手の弱点を見つけるのと、そこの攻め方を学ぶためとのこと。
 私は六枚落ちを学ぶ前に礼儀作法(上手が駒を触るまで下手は駒に触れてはいけない)を教わっていたので、女性教室に行っても上手である先生が駒に触れるまで、何もしないでジッと待っていた。
 その様子を見ていた先生には意味が分ったらしく、「ここは多面指しだから先に駒を並べていてもいいのですよ」と、にこやかに言ってくれた。
 それからは先ず、上手の王将を所定の位置に置いてから自分の駒を並べ、早めに並べ終えたら上手の駒を並べるようにした。

 生徒達が学んでいる手合いはまちまちだったが、二枚落ちを学んでいる人がほとんどで、六枚落ちは私だけだった。
 六枚落ちでも勝てない私は、二枚落ちで勝っている生徒を見ると凄いと思い、そこまで行くにはどれくらいの時間が掛かるのかと溜息が出た。
 兎に角、六枚落ちをクリアしなくては駒が貰えないので、六枚落ちはかなり時間を掛けて勉強した。
 六枚落ちにそこそこ慣れた頃、ヒデ先生に「そろそろ四枚落ちにいきませんか」と言われたが、私は「六枚落ちで勝っていませんので嫌です」と断ったら、ヒデ先生は困ったような顔をした。
 お陰で、六枚落ちには1年ぐらいの時間を費やす事になった。
 四枚落ちを通過するのは3か月ぐらいの早さだったが、また二枚落ちで躓(つまず)いて、ここを卒業するには1年以上も掛かった。
飛車香落ちは意外に早く3〜4か月ぐらいで通過した。
 飛車落ちは半年ぐらいしか勉強をしなかったけど、勝率が良くて面白かった。

 角落ちに入ってからまもなくして私自身の都合で女性教室を辞めたので、角落ちの定跡はほとんど知らない。
 その頃の師匠は、日本将棋連盟近くに住んでいたアパートを引き払い実家に戻っていたので、会う機会が少なくなっていた。
 プロから教わる機会が無くなった私は将棋道場に通う事を奨められ、アマチュアとの実戦で腕を磨いた。
 因みに、師匠に六枚落ちで初めて勝ったのは、将棋を始めてから2年経った時だった。
 師匠は約束通り、ご褒美に初心者にはもったいないぐらいの高級な黄楊(つげ)の彫り埋めの駒をプレゼントしてくれた。
 あの時は将棋を頑張った甲斐があったと嬉しく思い、励みにもなった。

「ああ言う棋 交友棋」アマ女流将棋大会(6)

掲載日:2006年9月14日 テーマ:将棋 , 趣味

 女性教室に通い始めてから半月位たった頃、「来月にアマ女流名人戦の将棋大会が開催されますので、皆さん参加して下さい」と女性教室の先生方達から言われたので、その事を師匠に話したら、「負けてもいいから参加した方がいい」と言われた。
 しかし、私は平手の将棋を指した事がないので、まだ早いと思って参加を断った。
 それでも師匠に、「将棋大会の雰囲気を知る為にも出る一手」と言われたので、出場する事にした。
 なにしろ平手は指した事がないので、将棋大会の前日に師匠から『棒銀戦法』だけを教わり、出場した。
 将棋大会の形式はスイス式トーナメントで、一日4局指すとの事。
 将棋大会では、相手がどんな戦法で来ても、バカのひとつ覚えで『棒銀』だけを指したので、勝てるわけがない。

 当然の事のように3局は簡単にまけたが、しかし、最後の4局目に事件がおきた。
 3局目に負かされた相手と、4局目の対戦相手は小学生の友達どうしのようだった。
 3局目に指した子が対戦している私を前にして女の子に、「アナタ、弱い人に当たって、良かったわね」と励ましている。
その言葉にムッとしたが、本当の事だから仕方がないと思った。
それだけで止めてくれればよかったのに、追討ちをかけるように「アンタネェ、この人に負けたら、恥よ」には、怒った。
自分が弱いという事をすっかり忘れて、負けてたまるかと闘志が湧いてきた。
 そうしたら、『一手詰め』の詰め将棋にも難渋している私が、ナント勝ったのだ。
 全敗を覚悟で参加した将棋大会だったので、この1勝は言葉には言い表せないくらいに嬉しかった。
 あの1勝のお陰で将棋に夢中になっていったと言っても過言ではない。
因みに3局目に対戦した相手は、現女流プロの船戸陽子二段が小学生の時だった。

 アマ女流名人戦は年1回の恒例の将棋大会だったので、翌年の将棋大会にも出場した。 前回の大会で簡単に負かされた小学生の女の子と今回も対戦したが、またしても負けた。しかし、今回の場合、負けはしても白熱した好勝負だっただけに負けたことは、とても悔しかった。 そんな私の気持ちを知ってか、「オネエサン、去年より強くなりましたね」と、負かされた小学生の女の子に慰められた。
 負けた相手の小学生の女の子に慰められて、惨めな気分になって落ち込んだが、それでも将棋大会はとても刺激的で面白かった。
 それからは、色々な将棋大会に自ら率先して参加するようになった。

「ああ言う棋 交友棋」珍プレー(7)

掲載日:2006年10月12日 テーマ:将棋、大会
野球に珍プレーがあるように、将棋にも珍プレーがある。
 将棋の珍プレーは大体が反則をした時が多い。
 特に将棋大会で緊張している時や、勝ちを意識した時に見られる。
 私も、楽勝と思っていた対局で反則負けをした事がある。
それは、王手を掛けられた時、王将が逃げれば暫らくは王手が掛からないので、安心して相手の王将が詰むかどうかを読んでいた。 
そうしたら9手詰めを発見して嬉しくなり、王手が掛かっていることをすっかり忘れて詰ます手を指したら、王将を取られて負けてしまった。
天国から地獄へ真っ逆さまに落ちた気分だった。
逆に、相手の王将を取った事もある。
定跡を覚えたばかりの初心者によくある事だが、自陣の駒組みばかりに気を取られて相手の駒の動きを全く見ていない。
私の角道に相手の王将がいるのに、角道を塞いでいる自陣の駒を自ら動かしたので、空き王手になってしまった。
それには私の方がビックリしたが、相手の王将を取って駒台に置いた。
相手は何が起きたのか分らずにキョトンとしていたが、暫らくして事の重大さに気が付いて「あ〜〜」と声を発した。

珍プレーは王将を取ったり、取られたりだけではなく、二歩の反則も多い。
 20年近く経った今でも忘れられない二歩で負けた対局がある。
 それは、アマ女流将棋大会の準決勝の時だった。
香車を打てば即詰みになることを読みきっていたのに、秒読みに追われていたので駒台を見ないで慌てて駒を握った。 
持った駒を香車だと思っておもいっきり盤に叩きつけたが、指を離したとたんに香車ではなく歩だった事に気が付いて「ギャッー」と悲鳴を上げた。
 なんと自分の歩の上に歩を打ったのだ。 悔しいというより泣きたくなった。

珍プレーは反則絡みだけではなく、錯覚もある。
 それは大体が終盤に集中している。
 これもアマ女流将棋大会での事だった。
私が少し優勢で相手を追い詰めていて、相手が受け切ったら相手の勝ちというような局面の、詰むか詰まざるかの白熱した終盤だった。 
この一手で詰ましたと思って気合を入れて駒を打ちつけたら、その迫力に相手も詰まされたと思ったらしく、「負けました」と投了した。
 私達の将棋を視ていた安恵六段(当時)に「敗因は何ですか?」と尋ねたら、「投了が敗因ですね。これは詰んでいないですよ、むしろ吉田さんの指しきりですね」と、まで言われた。
まさに、ふたりの読みが合った錯覚の珍プレーだった。

将棋酒場にて

掲載日:2006年11月6日 テーマ:将棋、プロ、アドバイス

プロの強さ

 将棋酒場ならではの出来事で、プロの強さをしみじみ思い知らされたことがあった。
 佐伯八段と安恵七段(現役の頃)は対局があったらしく、共に勝って美酒を大分飲んで来た。佐伯八段は立っているのがやっとで、呂律も回らず何を言っているのか、聞き取れないそんな状態だった。
 その時は、お客さん達が将棋を指していた。その将棋を暫らく見ていた佐伯八段は、「僕とも指して」と、呂律の回らない言葉で言いながら盤の前に座った。
 相手のお客さんの棋力は初段か二段位なので、「二枚落ちでお願いします」に、佐伯八段は、「僕、酔っ払っているので平手にしようよ」と言ったが、相手はどうしてもプロに勝ちたかったらしくて、「プロの八段に平手は恐れ多いから、二枚落ちでお願いします」と再度頭を下げた。
 結局二枚落ちで指すことになったが、結果はあっという間に下手の方が不利になってしまった。それを見ていた安恵七段は、困ったような顔をして「佐伯先生、手加減ができないくらいに酔っていますので帰りましょう」と、佐伯八段を抱えて帰って行った。
 いくら酔っていてもプロを侮ってはいけないことを思い知らされた出来事だった。

将棋を始めた切っ掛け

 当店は『一歩』という将棋酒場で、お客さんは将棋の好きなアマチュアやプロ棋士が多い。 プロ棋士も将棋を始めた時はアマチュアだったはずだし、どこからプロとアマチュアに分かれたかを知りたくて、将棋を始めた切っ掛けから訊いてみた。
 切っ掛けは、物心がついた頃から身近に将棋を指している風景があって、それを見ているうちに自然と憶えたというのが多かった。4〜5歳頃には見よう見まねで指していたという。 自然に憶えただけでは強くはならなかったが、父親や兄弟から教わり、小学生になってからは友達と指す機会が増えてきて、段々と頭角を現すようになった。
 変わったのでは、周りに一緒に遊ぶ友達がいなくて、一人で数字をパズルのようにして遊んでいたら、新聞にたくさん数字が出てくる記事があって、それに興味を持ち数字を追っていったら、一局の将棋になることに気が付き、面白くなって毎日棋譜を並べていたら、一年位で初段になっていたという棋士もいた。
 中原永世十段も4〜5歳頃から指していて、小学4年生で高柳門下に入門し、それから半年くらいして6級で奨励会に入った。当時は棋士になる人が少なかったので、6級は無試験だった。
 年少者で奨励会に入る子がいるかと思えば、プロになるには遅すぎるのではないかと思える高校3年生で奨励会の試験を受けて合格した子もいた。
 その子は、早稲田大学にも受かっていたが、遅いスタートだから二束のわらじは駄目だと師匠に言われて大学に行くのは断念した。
 その棋士は現在、六段でフリークラスに席を置いて普及活動しているが、棋士になったことは後悔していないという。
 元々が遅いスタートだった上に20代で理事に選ばれて4年間勤めているうちに、タイトル戦を争う棋士になるよりは普及を中心に活動する棋士の方が向いていると悟った棋士は武者野勝巳六段(以下武者野先生)。
武者野先生は理事を辞めた後、故郷の館林に戻り、普及活動をしている。

 

これから将棋を始める人へのアドバイス

 武者野先生の生徒さんの中に隠居してから将棋を始めた方がいる。
 その方は仕事一筋に生きてきて、一代で築いた会社を息子に譲って隠居した時、仕事以外は何もしてこなかった自分に気付き、これからは知的な趣味を始めなくてはと思っていた。そんな時に武者野先生に出会い、将棋を始めることになった。 
今では週に一回定期的に武者野先生から個人レッスンを受けている。
 このように積極的に学ぼうとする人はいいが、そうでない人達にどのようにして興味を持たせればいいのかと尋ねたら、先ず、将棋を指さなくても将棋の話ができる仲間を作ること。 
その方法はインターネットを利用すれば、大勢の人と知り合うことができる上にスムーズに打ち解けあうことができる。 
慣れたら年に数回オフ会を開いて交流試合することもいいでしょう。
 強くなりたい方へのアドバイスは、盤数をこなすことと詰め将棋を解くこと。
 先ずは、一手、三手詰めをパズル感覚で楽しみながら解くのがいいでしょう。
 長手数の詰め将棋は将棋が嫌いになる原因になるので止めた方がいい。
 中原永世十段は、「脳を使うとボケ防止にもなるので、特に中高年の方には、将棋を楽しい趣味として脳を目一杯使って長く続けて欲しい」とアドバイスしている。

「ああ言う棋 交友棋」将棋センター デビュー(8)

掲載日:2006年11月24日 テーマ:将棋、昇給

 新宿将棋センターを紹介してくれたのは、女流プロの蛸島彰子四段(当時)で、私が女性教室に通うようになってから一年位経った頃だった。
 電話で紹介だけしてもらって、一人で新宿将棋センター(以下、将棋センター)に出掛けて行った。
 初めて足を運んだ将棋センターは、かなりの広いスペースなのにほぼ満員で、全てが男性ばかりなのには驚いた。
 気後れしながらも受付に行き、蛸島先生に紹介された事を告げた。
 受付で棋力を尋ねられたが、自分の棋力が分らないので、棋力診断をしてもらった。その結果は6級との事。
 駒の動かし方とルールが分っていれば、どうやら6級に認定してくれるようだ。
 何故なら、私より低い級位者はいなかったから。
 それでも、6級から3級の級位者は7〜8人位はいた。
最初の頃は将棋センターの雰囲気に馴染めず緊張していたのか、それとも、本当に弱かったのか、全然勝てなかった。

 私は将棋を指していない時は、受付の隣に陣取って手合い係の入野さんに、どうしたら勝てるようになるかと、グチとも相談ともつかない事を言っていた。
 入野さんは「ひとつでいいから得意戦法を持つ事だ」と、助言してくれた。
 どういう戦法を勉強しようかと思った時、私の師匠は居飛車党で、時々は居飛車の棋譜の説明をしてくれていたのを思い出した。
居飛車には違和感が無かったので、将棋の純文学と言われている『矢倉』を勉強しようと思った。
 それからは、入野さんが手の空いた時に『矢倉』を教えてくれた。
入野さんは中央大学の将棋部のOBで、教え方が上手かった。お陰で勝率も良くなってきた。その頃は、将棋センターに週に2〜3回は通った。
もっと強くなるには、目標を持つ事だと思った。
目標にしたのは、将棋センターで負け越したままでは帰らない事。

 同じ位のレベルの相手と指していると、誰が先に昇級するかと競争心が湧いてきて励みにもなった。
私がたまたま帰郷している間に、私より先に5級から4級に昇級したヒトがいた。
 そのヒトが「吉田さん、僕、昇級しました」と嬉しそうに報告に来た。
先を越されて悔しかったが、一応「おめでとう御座います」と、にこやかに言って、その後に、「何故、昇級できたか分かる?」と続けた。
 彼は「分りません」と答えた。
 「それはね、私が居なかったからよ」と言ったら、そのヒトはキョトンとしていた。
 そうしたら、直ぐにそのヒトと手合いが組まれた。
 それは、私の昇級を賭けた一番でもあった。 私は「私がいたら、貴方が昇級できなかった事をこれから証明するわ」と宣言した。
 強気な発言をしたものの、本当のところ勝つ自信はなかったが、火事場のバカ力が出たのか、自分でも信じられないけど、勝って5級に昇級した。
初めての昇級だったので、あまりの嬉しさにジーンとなった。
ご褒美に入野さんが飲みに連れて行ってくれたのも、嬉しかった。

「ああ言う棋 交友棋」将棋酒場デビュー(9)

掲載日:2006年12月19日 テーマ:将棋 , 対局

 新宿将棋センターで初めて昇級したご褒美に、入野さんが新宿・歌舞伎町の某将棋酒場に連れて行ってくれた。
 そこは、7〜8名ぐらいが座れるカウンターと、奥には将棋盤3面とテーブルが2卓置いてある座敷があった。
 座敷では、酒を飲みながら将棋を指していて、それを見ているお客さんも酒を飲んでいる。初めて見る光景に驚いた。
 私は将棋の礼儀作法から教わっていたので、酒を飲みながら指すなんてとんでもない事だと思っていた。が、私もその雰囲気に直ぐに慣れて、そこで酒を飲みながら将棋を指すようになっていた。 
 入野さんは、そこの常連のお客さん達を紹介してくれた。
 その中で特に印象に残っているのは、最初に紹介してくれた、私と同じ沖縄出身の奥原忠吉さん。彼は沖縄出身だけど、その頃は大阪に住んでいたので、アマ王将の大阪代表として全国大会に出る為に上京しているとの事だった。

 その将棋酒場にはアマ強豪やプロ棋士達が出入りしていた。
 私は最初からプロ棋士に教わって来たので、アマ強豪という事が理解できなかった。
 入野さんの説明によると、アマ強豪とは県代表クラスや真剣師の事だという。
 その中には、真剣師の小池重明さん(故人)や、日本棋院で将棋の強豪“三羽烏”の中の一人、上村邦夫九段(故人)もいた。
 真剣師とは読んで字の如く、真剣に将棋を指す人の事だと思っていたら、そうではなくて、賭け将棋を指す人達のことをいう。
 

 その将棋酒場では、真剣師達の将棋を見せてもらって、大分勉強になった。
 真剣師達の場が立たない時には、将棋を教えてくれた。当然のことだが、私に金を賭けようという人はいなかった。
 小池重明さんには4枚落ちを3局も教えてもらった。
 私にとって4枚落ちの手合いは苦しかったが、小池重明さんは楽だったらしくて周りのお客さん達と談笑しながら指した。
 将棋は静かに指すものだと思っていたのに、うるさく指す人は初めてで、小池重明さんの対局態度に違和感があったことが印象に残っている。
 このように某将棋酒場のお客さん達と仲良くなってからは、いつの間にか新宿将棋センター経由将棋酒場行きというコースが出来上がっていた。
 そのお店にだいぶ慣れてきた頃、将棋を指しながら店を手伝ってくれないかと言われて、働く事になった。
 初段以下のお客さんは私が相手をするようになり、その頃に棋力が伸びた。 
 今から思うと、某将棋酒場でバイトをしたことが、将棋酒場『一歩』を営む布石になったようだ。


「ああ言う棋 交友棋」一歩を始めるきっかけ(10)

掲載日:2007年1月17日 テーマ:ゴールデン街 , 将棋酒場

 将棋酒場『一歩』を始めたきっかけを一言で言うと“失恋”である。
 4年ぐらい交際していた人に見事にふられてしまい、何も手に付かないくらいに落ち込んでいた。
 その頃は不動産関係の会社に勤めながら、友人のお姉さんが経営している銀座のパブで、週に2〜3日バイトをしていたが、ホステスという仕事は好きな職業ではなかった。
 しかし、そんな私を見かねた勤め先の社長が「君は、不動産の仕事には向いていないようだし、男との結婚を諦めて店とでも結婚した方がいいのでは」と、社長によく連れて行ってもらった新宿の『ゴールデン街』で店を始めることを奨めてくれた。
 社長の助言は乱暴だと思ったが、無気力な今の状態から脱するには環境を変えなくてはと思っていたのと、苦手な水商売で頑張ることができれば、きっと立ち直れると思い、社長の話に乗ることにした。

『ゴールデン街』は個性的な飲み屋が多く、気に入っている街だったので、ここならいいと思った。
 当時は、地上げ屋が横行していた頃で、風前の灯の街といわれていたそうだが、私はそんな事情や背景を知らなかった。
 社長の行きつけの店は『花の木』というスナックで、そこのママさんは“ゴールデン街を守る会”の役員をしていたので、私が店をやりたいといったら大歓迎してくれて、店舗まで紹介してくれた。ところが、その店は数年間空き家だったらしく、蜘蛛の巣が張っていて、まるでお化け屋敷のようだった。
 小さな荒れ放題の店舗を見て驚いたが、気を取り直して工務店に勤めていた弟に相談したら、何とかしてあげるから大丈夫だよと励ましてくれた。店を始める話が持ち上がってから、開店するまでに3ヶ月位掛かった。


 ずぶの素人の私は、どのように営業していいのか分からなかったので、全て『花の木』のママさんに相談した。
 ママさんに、「営業時間はきっちり守るのと、会計は明朗にすること。そのふたつさえ守れば、店はなんとかなるものよ」と助言されて、少しは気持ちが楽になった。
 先ずは、店の名前だが、私はパンだけの為に働くのは嫌だったのと、趣味の将棋を活かしながらやりたいと思っていたので、将棋に因んだ名前を付けようと決めていた。
 第二の人生を踏み出す『一歩(いっぽ)』と、将棋も始めは大体『歩』から動かすので、『一歩』と名付けることにした。
 読み方は“いちふ”。 理由は“いっぽ”と“いっぷ”の破裂音が耳障りに思えたからで、意味は両方兼ねている。
 店を始めるきっかけの理由が“失恋”だっただけに、案内状は開き直った投げやりな文章になってしまい、貰った人はビックリしたと言っていた。
 案内状を読んだ、『花の木』のママさんには「私が紹介したのだから、3年は持たしてよね」と言われた。
 沖縄の身内も同様で、「赤字だったら無理せずに直ぐに家に帰って来い」と、みんな悲観的なことばかり言う。
 もしかしたら、私は何の考えもなしに大それたことを始めてしまったのではと、不安になった。

「ああ言う棋 交友棋」一歩開店(11)

掲載日:2007年2月16日 テーマ:将棋 , 勝負

 周りに悲観的なことをいわれながらも「一歩」を開店にこぎつけた。
 悲観的なことばかり言われたそのぶん気を引き締めて頑張ろうと思い、一年間は年中無休にした。
 もし、みんなに賛成されていたら、天狗になって長続きはしなかったと思う。 
 そんな脳天気な私の性格を見越して、あえて苦言を呈してくれたのだと、今となっては感謝をしている。
 三坪の店は、八人が座れるカウンターと将棋盤一面が置けるテーブルが一卓あって、その席は対局室と呼ばれている。
 カウンターの中はもっと狭くて、蟹のように横歩きしか出来ず、私は動くたびにグラスを割っていた。
 最初の頃は一品料理も出していたが、直ぐに止めることになった。その訳は、手際が悪くて作るのが遅く、やっと出来た料理をひっくり返して泣いたこともあったからだ。で、お客さんとしては、売り上げに貢献しようと思っていたらしいが、そんな私を見て誰も料理を頼まなくなった。

 「一歩」を始めた頃は将棋盤を置いてある店はあまり無かったので、「一歩」は“将棋の店”として知られるようになった。
 しかも、ゴールデン街で将棋を指せる女性が店をやっているのが珍しかったようで、他の店のママさんやマスターなどが、将棋に自信のあるお客さんを紹介してくれた。
 ある時、近くの店のマスターは「この人はかなりの天狗だから15分以内にやっつけてくれ」と、将棋好きなお客さんを連れてきた。
 隣に座っていたお客さんがタイムキーパーになってくれて指した結果、13分位で私が勝った。天狗の鼻を折られたお客さんは、それから毎日来店するようになった。
 開店当初は「一歩」の看板を見て将棋好きが来てくれて勝負を挑まれた。忙しい時は相手をすることが出来ずにいると、私に悪態を吐いて他のお客さんに絡む。仕方なくお客さんに了解を得て指したが、私に負けると大人しくなって言葉遣いも丁寧になりスゴスゴと帰り、きまりが悪かったのか二度とは来なかった。

  印象に残っているアベックのことだが、その日は日曜日で、お客さんはそのアベックの一組だけだった。男性は将棋が好きらしくて、将棋を指してくれとせがむが、私は「将棋を指すと彼女が一人になるので駄目です」と断わった。すると彼女が、「私は彼の楽しそうにしている顔を見るのが好きなの、私からもお願いします」というので、指すことにした。
 その彼女は、ミーちゃんという二十歳前後の若い女の子で、今時の子にしては健気で珍しいと思った。
 その娘(こ)の為に負けてあげようと思っていたので、将棋は私が受けてばかりで、中盤から終盤に入りかけた頃には形勢が不利になった。彼は優勢を意識して、ミーちゃんに「この将棋は僕の勝ちだから前祝のチュウをして」と言った。
 失恋がきっかけでこの店を始めたばかりなのに、まだ傷が癒えていない私に見せつけるなんて許せない、これ以上の幸せを上げてたまるかと反撃に転じて私が勝った。
 負けて唖然としている彼に「途中までは僕が優勢でしたよね、どの辺から劣勢になりました?」と質問されたので、「貴方とミーちゃんがチュウをしたあたりからよ」と答えた。

「ああ言う棋 交友棋」最終回(12)

掲載日:2007年3月8日 テーマ:趣味 , 琉球舞踊 , 将棋

 琉球舞踊を始めたのは20歳で、将棋を始めたのは30歳だった。
 お稽古日は将棋も踊りも水曜日で、昼は女性将棋教室で将棋を教わり、夜には踊りの稽古に通っていた。
 暫らくは両方続けていたが、踊っていても頭のなかに将棋の局面が浮かんでくるようになって伴奏曲が聴きとれず、踊る事が出来なくなった。
 その事で、ふたつの違う趣味を同時進行出来ない自分は、不器用である事が分かった。
 そこで、踊りの先生に将棋の初段を取って、将棋大会で優勝するまで休ませてくれるようにお願いした。 踊りの稽古は20年ちかく休む事になった。
 30歳から将棋を始めるのは遅いのではないかと言われたが、60歳から踊りを始めて80歳で名取になった先輩が身近にいたので、気にする事はない、と思っていた。
 今でもそうだが、何かを始めようと思っても躊躇する時は、60歳から踊りを始めた先輩の事を思い出して挑戦するようにしている。

 趣味をやっていて良かった事は、先ず友人の輪が広がった事。
琉球舞踊の効用としては、沖縄の歌が八・八・八・六・の30文字の“琉歌”から出来ているのを知った。それをきっかけに沖縄の文化にも興味を持つようになった。
 将棋の場合は、物事を筋道立てて考えるようになり、そして、集中力が養われた上に辛抱強くなった事。

 失恋して人生をやり直そうと思った時、将棋に出会えて救われたように思う。
 趣味は人生を潤して豊かにしてくれると思っているが、しかし、将棋は良い事ばかりではなかった。
 将棋は面白くなると夢中になってしまい、ついつい他の事が疎かになる。
 私も将棋を指すと集中し過ぎて周りが見えなくなり、店の経営者なのに他のお客さんに気が回らず、接待する事が出来なかった。お客さんの出入りさえも気が付かない事があった。
 そういう事を続けていたからか、お客さんの数が段々と減ってきて、店が傾きかけた時があった。
 もはや、好きな将棋を指している場合ではないと反省し、「店では将棋は指しません」と宣言した。それからは店で将棋を指すのを止めた。お客さんも徐々に戻ってきてくれて、お蔭で開店してから19年目を迎えることが出来た。
 なぜか将棋好きにはユニークな人達が多く、色々なエピソードを残してくれたが、限られたスペースなので、ここに紹介できないのが残念。
 この続きは“一歩”でグラスを傾けながら話したいと思っています。
 去年の4月から一年間、お付合いありがとう御座いました。
 素晴らしい“セカンドライフ”が送られることを祈りつつ、ペンを擱(お)きます。