「墓参の記」

 ゴ−ルデン街「一歩」の常連であり、囲碁と将棋と酒とショ−ト・ホ−プをこよなく愛し、皆からも慕われ人気者であった宮長壮吾さんが、昨年の3月に逝去された。お墓は宮長さんの故郷である姫路に有るという。

 偶々5月5日に森信雄七段一門の祝賀会が大阪で有り、この機会を利用して前日に姫路まで足を伸ばし、お墓参りに行くことにした次第。同行は、宮長さんが東京在住時代に長く通った酒場「一歩」のママである吉田純子さん、宮長さんと旧知の菅原さん、青木さん、北野の4名。

5月4日午後3時、姫路駅着。宮長さんのお兄さんの泰三さんが駅まで車で迎えに来ててくれていて、宮長さんの生家でもあるご自宅へと案内していただく。ご自宅は姫路城よりやや北の野里月丘町にある。閑静な住宅地である。

 出迎えてくれた泰三さんの奥様に東京駅で買った手土産をお渡しし、まずはご仏壇へ線香を供える。持田さんより託された線香と、宮長さんの愛飲煙草であったショ−トホ−プ二箱を仏壇に供えた後、お茶をいただきながら、泰三さん、奥様と故人の思い出話となる。

 壮吾氏は男三人女二人、5人兄弟の4人目として昭和29年に宮長家に生まれる。下に妹さんが一人。幼い頃、子供のいなかった宮長本家の伯父夫妻の養子となり、兄弟と離れ加西市の本家で暮らすこととなったという。長兄の泰三さんは一人養子に行った5つ違いの弟を不憫に思ったのか休みのたびに本家を訪れ、特に夏休みなど長期の休みには本家に泊まりっぱなしで弟と一緒に過ごしたという。

 後に河合塾の数学講師を勤めた壮吾氏であるが、

「高校1年くらいまでは、私が数学を教えていました。よく電話をかけてきて、FAXもない時代でしたから、電話口で数学の問題を言うのを私が書き取って、解いてからまた電話で教えたものです。」

とは泰三さんの談。

 現在、泰三さんは元々の勤務先から「産業雇用安定センタ−」に出向されているとのことで、不況の昨今、再就職が決まった人からは感謝されることが多いという。「サラリ−マン生活の最後に、人から感謝される仕事に就けてよかった。」と仰られていた。

 壮吾氏は、京都大学工学部を卒業後、会社には就職せず文筆で身を立てたいと上京、河合塾で講師をする傍ら、空海の研究に勤しむ生活を続けることになる。いつしかゴ−ルデン街に入りびたりとなり、一歩には開店一年目からの常連になった。

 平成8年頃、義理のお母さん(伯母さん)の体の具合が悪くなったことも有り、大阪に居を移す。その後、平成9年にお義母さんが、平成17年にお義父さんが亡くなられ、宮長本家は壮吾氏一人となる。お義父さんの葬式の喪主はむろん壮吾氏が勤められた。

 

 思い出話は続く。

 一歩に来店したきっかけが将棋であったこと。純子ママとの初手合いは平手で、しかもわずか12分で壮吾氏の完敗であったこと。その雪辱の為毎日のように通うようになったこと。囲碁も好きで、日本棋院の宮沢吾朗九段とはよく連れ立って飲んでいたこと。(泰三さんは宮沢九段を知らなかったようで、

「あの”さかなくん”のお父さんですよ」と教えると、驚かれていた。)

「カラオケではよく裕次郎を歌っていましたよ」と純子ママが言うと「壮吾のカラオケなんて聞いたことなかったです。」と泰三さん。

「高校のときはサッカ−ばかりやっとりました。」一同「へぇ〜」

 誰かが「つき合っていた女性はいなかったのですか」と尋ねると、「日記を整理していたらそれらしき人の名前が一つ二つ出てきましたが、連絡先はわかりません」とのこと。

「大阪の豪華マンションに女性が誰も泊まったことがないのでは寂しいですよね」と言うと、「あら、あたしは泊めてもらったことあるわよ」と純子ママ。(だから、あなたの場合は数に入ってないですって)

 一歩主催の将棋大会にはよく参加し、自らBクラス優勝もし、また”観戦記”も大変好評だったこと。

 大阪の森一門の祝賀会にも参加し、特に98年の故村山九段のA級復帰祝いの際は花束のプレゼンタ−にもなったこと。皆それぞれ何かの折、大阪を訪れた際は一緒に飲み、マンションに泊めてもらったこと。

大阪の行きつけの店に連れて行ってもらったこと。その行きつけの店の一つ「CAROL」では毒舌のわりには皆から歓待されていたこと。等々

 写真も見せていただく。子供の頃の写真。お店(たぶんCAROLか)のカウンタ−でグラスを片手に店の女の子とツ−ショットでご満悦の写真。お義父さんのお葬式のときの写真など

 そして、話は終焉に向かう。

 私(北野)が宮長さんの異変を知ったのは昨年のゴ−ルデンウィ−クに森一門の祝賀会で大阪に来た際、CAROLに久々に寄った時である。その時のCAROLのママの話によると、昨年(即ち2007年)の11月に店に見えたきり連絡も出来ない状態で、その時にはかなり体調が悪そうだったので心配しているとの話。その年(2008年)の正月には年賀状も受け取っていたので私も意外だったのだが、その後消息を知ったのは7月に泰三さんからいただいた、壮吾氏の逝去を知らせる葉書であった。すでに3月に亡くなられていたと聞き、非常に驚いたのである。

 泰三さんの話によると、昨年の1月25日頃、壮吾氏から大阪在住の妹さん宛てに、「水が飲みたい」との電話があったと言う。その内容もさることながら、声も尋常ではなかったため、同じく大阪在住の次兄とともに急行。ドアの呼び鈴を鳴らしても応答がないため、窓枠を外して入るとベッドに横たわったきり起き上がれない状態であったという。すぐに救急車で病院に運んだが、すでに胃がんがかなり進行していたとのこと。

 仕事をキャンセルして翌日病院にかけつけた泰三さんはベッドに横たわる弟と対面したとき、永遠の別れが近いことを察したという。

 約2ケ月間の闘病の後、平成20年3月27日に帰らぬ人となった。

「五人兄弟の中でも、壮吾が一番元気だったのに、今でも信じられません」という泰三さんの言葉に奥様も頷かれる。

 午後4時を過ぎ、暗くならないうちにと、泰三さんの車でお墓参りに向かうことにする。

お墓は姫路市の北方の加西市に有り、宮長本家の近くという。車は姫路市街から新緑の丘陵地帯に入り約20分、小高い丘の中腹に墓石群が見えるところで停車した。周りは長閑な田園風景である。ゆるやかな傾斜面を50mほど上り、目指すお墓の前に立つ。ここにはお墓のみあり、浄土真宗のお寺自体は市街に有るとのこと。「宮長家先祖代々の墓」と刻まれたお墓が多く目に付く。

 泰三さんが用意して持参されたお花と線香を供える。我々は持参した「サントリ−角瓶」の封を切り、各自紙コップに注ぎ(もちろん、運転の泰三さんは除く)、一つをお墓の前に置く。角瓶は壮吾氏の愛飲のウイスキ−で、彼のマンションには角瓶の空ボトルがごろごろしていたものである。毎年、年初から購入したボトルにナンバリングするのが常で、12月にお邪魔したときなどは、たしか50番台であった。「すごい数だね」と言うと、「まぁ、ボンズにはかなわないけどね」と笑った。(その年、SFジャイアンツのバリ−・ボンズは本塁打73本を放ち、メジャ−リ−グ新記録を打ち立てた。)

 各人が、墓前のコップと杯を合わせて乾杯する。出来れば、生前のまだ元気なうちに盤をはさむなどして乾杯したかったが。

 宮長本家の家はお墓の立つ丘のすぐ下にあった。大正4年ごろに建てられたという母屋と、昭和10年頃に建て増しされたという離れとを合わせ、16室という大きな家であるが、今は住む人もいない。

 周りは近年宅地開発などされたようにも見えないので、宮長さんや泰三さんが子供の時分に遊びまわった風景のままなのであろうか。

 「夏になると、網を片手に一日中虫取りに興じていた幼少時の弟の姿を思い出します。」という、泰三さんからいただいた葉書の一節を思い出した。一瞬、丘の上を駆け回る少年の姿が見えるような気がした。

 お墓に刻まれた戒名は「法光壮覚居士」とある。

 宮長さん、やすらかにお眠り下さい。合掌。

 泰三さんには車で姫路駅まで送ってもらい分かれた。休日を我々のために空けていただき、案内していただいた泰三さんと奥様には深く感謝いたします。 

  

以上 (2009/05 北野記)