伊藤悟とひょっこりひょうたん島
 

■第6回 「記録がしんどい!」の巻 2003年10月13日(月)

 私は、1964年から69年までの間ずっと、『ひょっこりひょうたん島』を見ながら、子どもたちの大活躍に拍手し、島民たちが出会う事件や冒険にワクワクしていた。それは、現実の、特に学校という世界では、決して実現できないことだったからだ。

 『ひょうたん島』が始まるまでの2年間(小学校3・4年/5年も同じだったので計3年間)私を担任した教師は、私の正義感とか表現力また冒険心を奪っていった。少なくとも、伸ばしてはくれなかった。その担任のえこひいきを、必死で勇気を奮って手を上げて指摘しても、怒られるかシカトされるか、それ以外の答えはなかった。忘れ物をせず、先生の言うことを聞き、授業中静かにしている……マジメな「いい子」が強く求められていた。ユニークさ、大胆さ、遊び心は、まるで評価されなかった。

 私は、『ひょうたん島』を見ながら、勝手にその島民となり、自分も子どもたちと大冒険をすることで、自分の心のバランスをとっていた。しかし、現実に、「よい子」が重視される学校(当時はいわゆる「受験戦争」が始まったころで、ひたすらテストの点数を上げようという学校・教師が多かった)の中で自分らしく生き抜いていくのは、残念ながら、『ひょうたん島』のファンタジーを以てしても不可能だった。

 私が選んでしまったのは、自分も「えこひいき」される道だった。とにかくテストの点を上げること。露骨に教師の態度も変わった。転校後の6年の担任も、遊び心を子どもたちに伝えてはいた(この担任が3・4・5年だったら変わっていただろう)が、同時に、「テストの点取り能力にたけている子は、私立の中高一貫の有名校へ行くのが幸せだ」という価値観も持ちあわせていた(当時はみんながそう思い始めていたころで、学歴=バラ色の人生、と信じる人が激増していた高度成長期だ)。

 私は、その担任の勧めで、塾通いを始め、東京の私立中学を受験し、合格する。1966年のことだ。入学してすぐ、私は度肝を抜かれる。早い進度、難しい応用をたくさん含む授業……。宿題だけでも大変なのに、予習・復習を欠かすとまるでわからなくなる。その上に、「文武両道」だと言って、先輩の指導の下、運動会(5月)の練習もきっちり毎日ある。私は、ある晩、勉強がいっぱいいっぱいになって、両親の前で泣き出した。それまで、イヤな小学校に何とか行き続けた我慢強さをもってしてもかなわなかった。でも、私は、ここで勉強を放棄せず、がんばってしまったのだ。

 1966年、3年目の『ひょっこりひょうたん島』は、充実期に入り、「ランニングホーマー一族シリーズ」(金持ちや貴族が生き方を変えていく)「アンコロピン王国シリーズ」(ひょうたん島に地底王国が作られる)「クレタモラッタ島シリーズ」(神様の権威が吹き飛ばされる)と、今リメイクしても、きっと受けるような要素がたっぷりつまった名作がめじろ押しだった。最高の年に近い。

 私の『ひょうたん島』記録作業は、滞った。ストーリーは台本にメモをしていき、人形やセットの絵は清書する時間がないので下書きのままだったりする。今思い出してもくやしい。当時は苦渋の末に、『ひょうたん島』に対してかけるエネルギーを減らす決断(ゼロにはしなかった)をしたのだけれど、勉強を減らしてもよかったのだ。それで手に入れた成績(や後の学歴)が、生きていく上で絶対の力を持つものではないなんてことは、誰も教えてくれなかったし、全く気付かなかった。

 『ひょうたん島』のディレクターのひとり、渡邊治美さんは、自分が解雇されても、ひょうたん島が録画されたビデオを保存しておくべきだった、「一生の不覚だった」と当時を振り返っておられるが、私の気持ちもそれに近い。

 それでも、番組を見るための努力は、最大限に発揮した。運動会の練習で遅くなっても、猛スピードで着替え、駅までダッシュして、電車に飛び乗り、また駅から自宅まで走る。必死で午後5時45分に、テレビの前にいた。宿泊を伴う行事の時には、懸命に母親にテープレコーダーの操作を教えて、音だけでも取ってもらった。母親はそう機械につよい方ではないので、最初は、全て準備して録音ボタンを押したままコードを抜き、時間が来たら、コンセントだけ入れれば、テープが回り始めるようセッティングして出かけたりもした。ありとあらゆる工夫と努力をした記憶がある。

 友だちには、どうして伊藤が、毎日急いで帰るのか不思議がられた。でも、なぜか自分は、『ひょうたん島』を見るためだ、ときっぱり言えなかった。「優等生」集団の中では、「そんな子ども番組のために」と笑われるのではないか、と思ったからだ。でも、確認はしていないが、きっとクラスメートにも『ひょうたん島』のファンはいたはずだ(当時の視聴率資料から推定しても、ファンは大人にも及んでいた)。

 私は、「テストの点数=のちの高学歴」を価値観の軸にすえる学校の中で、素直な感性を表現することに罪悪感さえ覚えるようになっていたのだ。教師の価値観に徹底的に合わせることで、将来への道(実は不確かなのだが)を教えてもらい、自分はそれにすがりつくしかない(他の生き方をイメージできなかった)と思い込んでいた。だから、自分の信じる『ひょうたん島』のすばらしさも堂々と語れなかった。自分の内面が自分で見えなくなり、他律的な人間になっていった。番組を見続けていたのとは裏腹に、どんどん『ひょうたん島』の自由な精神世界から遠くなっていった(現実と結びつけられず、私の心が二重構造になった)、とさえ言える。

 自分なりのペースがつかめて、何とか『ひょうたん島』にかけるエネルギーを元に戻せたのは、翌1967年の半ばのことだった。

つづく

★第7回は「何で終わっちゃうの?巻」:えっ、『ひょうたん島』が終わる? せっかくおこずかいも増え、全回音を録音して保存できるようになったのに……。なぜ終わったのか、その時伊藤少年は? 乞うご期待!

 

 ●バックナンバー

 ■第5回 「引っ越しで危うし」の巻 2003年8月24日(月)
 ■第4回 「スタジオ見学に圧倒される」の巻
 2003年5月12日(月)
 ■第3回 「大槻さんの大予言の巻」の巻 2003年4月10日(水)
 ■第2回 「初めて見た台本」の巻 2003年3月10日(月)
 ■第1回 「自分で記録するしかない」の巻 2003年2月23日(日)

 
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