藤本一郎の「つれづれなるままに」
1999 1月〜3月

3月26日 最高裁の情報公開

 3月24日、今年初の最高裁大法廷判決が出た。そして既にそれが最高裁のインターネット上で公開されている。

 最高裁のHPの更新が意外と早かったので、正直驚いた。インターネットも本格的に使えるようになってきたなあ、と思う。

 ネットで見られると、とても便利だ。法学部図書館ですら、翌日にすぐ判旨が読めるわけではない(多分)。しかもネットなら、図書館の閉館時間を気にしなくて言い。あと、情報が最初からデジタル化されているので、レジュメ等に加工するのも簡単だ。

 3年前まで想像もつかなかった早さでネットが普及していることを改めて実感した(そんだけなんだけど・・・でも凄いよね)。


3月8日 統一地方選挙まで約1ヶ月

 最近、百万遍もうるさくなった。

 交差点の西に社民系候補の事務所、東に自民系候補の事務所、北はいつもの共産党左京支部、準備は着々と進みつつあるみたいだ。

 ただ、なんとも物足りない。

 本来、政治とは補充性の原則が貫かれるべきだと考える。
 (まあ、サトコーの受け売りだけど)

 すなわち、自分たちで出来ないことをまず身近な地方でやって、地方でできないことを国がやる。

 こうすることで、政治が自分達に身近になるし、地方と国の仕事がある程度明確に分けられ、少なくとも国から地方を一方的に支配するという関係ではなくなる。

 しかし、だ。今の地方議会議員達は、自分達の仕事を誤解しているとしか思えない。

 県は違うが、下にも示したとおり、広島県の自民党県議は、「日の丸」実施を見守るためにすべての公立高校卒業式に議員を派遣している。そんな事は地方議員のやるべき仕事ではない。卒業式が政治色で染まっては、台無しだ。

 要するに、地方議員は国政と地方政治をあまり明確に分けて意識していないと思われる。もしかしたら思っているのかもしれないが、少なくともそれらしき事を有権者に訴えているとは言えない。

 しかし一方で我々有権者も、そもそも地方議員に何も期待していないのも事実である。

 例えば、京都・三条〜四条の間にフランス橋をかけようとした時も、中止に追い込んだのは住民の力であって、議員の力ではなかった。

 しかし、この問題こそ、地方議会でもっと議論されるべきだった。ところが、地方議員にとって、国とは違って「地方独自」とは、国とは違って共産党以外は全部一緒・仲間というような関係といえよう。

 そういう、なんとも言えない4年間の緊張感のなさが、この選挙の盛り上がりを欠くものとさせている。多分、盛り上がるのは東京都知事選挙だけだろう。

 こんなのでは、京都の未来はない。地方議員候補には、その辺を我々に訴えかけて欲しい。


p.s. 「日の丸」「君が代」については、民主党HPでの議論(こども・学校・教育での議論)が大変有益です。私も民主党の支持者とまでは言えませんが、とても充実していると思います。


3月2日 公立高校卒業式での「日の丸」「君が代」について

 広島県での公立高校の卒業式における日の丸掲揚率88%−昨年の約4倍となった。

 文部省、県自民党が、きわめて強制的に実施を強要したもので、断固として反対だ。

 三点、確認したい。

 まず、(1)国旗,国歌は法的には全く存在しない。

 しかし、(2)「国旗」「国歌」と普通一般人が思うものとして「日の丸」「君が代」がある。

 (3)この矛盾を説明する論法として、もっとも自然なのは、「日の丸」「君が代」は強制できない、という結論な筈である。

 強制するなら、法律に拠るべきだ。

 もっとも、「君が代」の歌詞の意味は、到底国歌に相応しいものとは思われないが。

 国歌、国旗とも、真に国民が必要を感じる時は、オリンピックの如く、自然と振られてしまう。どうしてそれではいけないのか。

 昨年、モーグルの里野選手が金メダルをとったとき、脱帽しなかった事が問題となった。

 しかしあれは問題だったのか。個人の、髪型が崩れてしまうことを嫌がる感情に勝るほど、「日の丸」「君が代」は重んじられるべきものなのか。
 国旗、国歌が敬われるべきとすれば、あくまで形式的な「国家」あるいは天皇を敬うためではなかろう。国民主権の国、国旗、国歌を法律により主権者が定めていない以上、何を偉そうに官僚や間違った地方の自民党県議如きが強制するのか。

 そんな事をするから、いつまで経ってもこの国には国歌も国旗も生まれない。議論を避け、押しつける一方だからだ・・・いい加減、あほな事やっている事に気づくべきだ。


3月1日 脳死移植
 遂に来た、という感がする。2月28日、臓器移植法の施行から約2年、脳死者からの臓器移植が行われた。

 最初に書くと、私はこれが実際に行われる以前は、臓器移植そのものには賛成で、かつ場合によっては自分が臓器提供しても良いと考えていた。ただ、今、今日の感想を述べてみると、混乱している、というか、どちらかというとどちらも反対という感じになっている。

 私は、今回3つの問題点が明らかになったと思う。

 まず第1点。具体的状況の下、(1)提供者のプライバシーは丸裸にされ、同意した家族から「反省を求める所感」が提出された。家族は折角「善意」の提供を泣く泣く承諾したのに、後悔する結果となってしまうことがあってはならない。それは善意ではない。

 では、今回のプライバシー丸裸状況が改善されれば、やっぱり許されるのか、というと、これも悩んでしまう。(2)非常に当たり前の事なのだが、今回、提供者の臓器は5つ(心臓、腎臓×2、肝臓、肺)に分割(但し肺は中止)されて移植された。いかに死にゆくとはいえ、このように分割される事に私自身が耐えられるだろうか。

 それ以上に深刻だと思うのは、今回もそうだったが、(3)脳死だと思われる状況に至った場合、自分が臓器提供の意思を有していると、治療を受ける権利が失われてしまうのではないか、という点である。

 脳死状態に陥ると、絶対に元に戻らないとされる。最善を尽くしてその結果なら、やむを得まい。しかし、もし医者が「そのうち脳死状態に陥る」と思って自分を治療しているとすれば、治る可能性のあるものが、本当に脳死になってしまうかもしれない。
 今回の提供者は、一旦脳死ではないと判定され、その後もう一度の判定で脳死とされた。この、2回目の判定以前は、客観的・法律的には脳死ではないことになるのだが、しかしそれ以前にも判定が行われるなど、医師は主観的には脳死を前提とした治療をしたとしか思えない。

 結論的に、私は、一方で脳死者からの臓器移植の必要性は大いに認めつつも、いま挙げた3つの問題点からして、やはり賛同できない気がするのだ。

 私は以前から臓器提供者カードを所持していたが、一回目の移植を機に書き換えようと、ローソンで新しいのをもらっておいた。昨日、悩んだ末、脳死前・脳死後を含めて、臓器提供をしない意思表示に書き換えた。無論、来年新たに書き換えるかもしれないが、今の私の気持ちはこんな感じだ。

 みなさんは、どうだろうか。私もいろいろ非常に迷っているので、是非意見を聞かせてほしい。アンケートをメインページに設置したので、もし良ければお願いしたい。


2月24日 ダイオキシン問題再び
 テレビ朝日の報道が問題視されているようだ。

 確かに、農作物を必死に作っている人にとって、死活問題だろう。

 しかし、では、危険性、すなわち死の蓋然性が他の野菜と比べて高いといえそうな所沢の野菜を出荷し続けることが解決なのだろうか。

 国はテレビ朝日に色々「いちゃもん」つけているようだが、この報道がなされるまで、国は産廃業者の野焼きを放置しつづけたではないか。県が初めて具体的対応を採ったのも今月に入ってからではないか。

 私たち国民も、国も、農家も農協も、甘く考えすぎている。ダイオキシン問題を。

 適当にごまかせばいい時期はとっくに過ぎている。人体に害がある可能性の高い物を「灰色」のまま「安全」として売り続けていては、この国は終わってしまう。

 テレビ朝日の報道は、仮に大嘘でかつ故意があったとしても、私は賞賛されるべきものと思う。


2月5日 「地方自治を知らなすぎる」
・・・と野中官房長官が菅氏を批判したそうだ。都知事選に、鳩山邦氏出馬の時、民主・自民の相乗りはまずい、との菅氏の発言を受けたもの。

 しかし、どうだろう。本当に「知らなすぎる」のか。

 そもそも本来、地方自治は「民主主義の学校」として、(1)団体自治(2)住民自治が要請され、その帰結として、(1)中央からの独立(2)直接民主制的制度の充実が要求される(憲法92〜94条)。

 確かに、(1)の趣旨から言えば、中央と地方で、全く別の政党の組み方があって良い。中央で自民党と民主党が与野党にあるからと言って、都で両党が与党であっていけないわけではない。

 しかし(2)の趣旨からはどうだろう。住民の権力行使の機会の保障のためには、「オール与党vs共産党vs雑魚」という地方首長選挙によくありがちな構図が望ましいだろうか。

 では、どちらを重視すべきだろうか。

 この点、日本国憲法が国民主権の実現を謳う点(前文、1条)、また、法律解釈を離れて、私たちが政治がおもしろい、と思えるのはどちらか、という点を考慮すれば、当然(2)である。
 かつ、(2)を実現する結果として、たまたま中央と地方の与野党の組み合わせが一緒となっても(1)の趣旨に反するものではない(許容性)。

 野中氏よ、貴方の発言は現実の間違った地方自治を前提としての発言であって、既に市民の感覚から相当ずれている。「知らなすぎる」のは貴方だ。


1月31日 医療の現実
 以下、Asahi.Com(朝日新聞)からの引用。

 フジテレビが29日夜に放映した「ウォンテッド!!」の中で、看護婦が意識のない患者を足げりにしたり、深夜の急患を追い返したりした経験について話したことや、その再現映像をめぐって視聴者から同局に意見や苦情が殺到した。芸能人らが追及する仕立ての番組で、この看護婦は「みんなやっていること」と説明し、視聴者に激しい拒否反応を引き起こした。  番組は午後8時から放映された。冒頭の約10分間、「患者でストレス解消 悪徳看護婦!」として、再現映像と、顔をぼかした看護婦のインタビュー映像が流れた。

 看護婦は、意識のない患者に寝返りさせるときに足でけったり、「先生はいません」と追い返した急患が、10分後に再び来たが死んでしまったりしたことや、睡眠導入剤を持ち出して横流しした経験について説明した。彼女は「患者なんか人間と思ってないですから」などと話した。

 続いて、芸能人らが「良心の呵責(かしゃく)を感じないのか」などと追及すると、この看護婦は「別にみんな同じだし」「3Kって言われるぐらいだから、やってられない」と答えていた。

 フジテレビの村尾誠太郎・広報部長によると、同局の視聴者センターには、番組終盤から午前零時ごろまで視聴者からの電話が続いた。交換台には約数千本の電話がかかったという。受付時間を2時間以上延長して対応したという。

 「病院や看護婦を刑事告発すべきだ」「バラエティー番組でこんな深刻な内容を放送していいのか」などの意見や苦情だったという。

 村尾部長は「時間帯や番組の性格から、今回の内容に違和感を持った人がいるかもしれない。しかし、現実にある社会の問題を広く伝えるための番組だ」と説明している。

 最近、医療現場で、特に痴呆症の者(徘徊癖のある者)に対して、ベット等に縛り付けて拘束する看護方法が問題とされている。つい先日、福岡県のいくつかの病院でこの方法を止めることが決議されたのが話題となったが、これが話題になるということは、そのような医療方法が一般的である証拠でもある。

 うちの母親も看護婦をやっているが、そのような看護方法を採らざるを得ない、と言う。病院は看護婦不足で、いわゆる「ゴールドプラン」によって患者、病院ベット数に対する看護婦の人数で補助の額が決まるため、准看護婦や資格のない補助の人の削減によって、実質的な看護体制が弱体化し、看護婦が従来やっていなかった仕事までやらされている現実を良く聞く。

 私はこの番組を見ていないので、新聞からだけではどのような「看護」の実体が報道されたかは分からないが、その背景にある問題を解決せねば、告訴告発で良くなる問題ではないと思う。


 日本は21世紀の競争社会の中で、現在の「大きな政府」から「小さな政府」への転換が必要、とされている。

 しかし、「大きな政府」を一律にどの分野もまんべんなく削って「小さな政府」にしてはならないことを確認する。ただでさえ不十分な医療も、教育も削られてしまうのではダメだ。

 その上で、教育、福祉(医療・年金)などには、明確な基準の下に、きっちりお金をかけて、私たち国民から見て安心できる体制を整え、他方で、本来民間でなしうる事業はどんどん民間に譲っていく、そういう、分野によって「大きな政府」「小さな政府」が混在する政府にしていかなければならないだろう。

 もしそれに失敗したら・・・。ただでさえひどい医療の現状が、更に悪化することは避けられまい。

 これは余談になるが、私の友人の知り合いのインドネシア人は、決して不法就労者でも何でもない(お金はある)のだが、急に倒れたのに「カゼ」と診断され、「日本語が分からないのは困る」として入院を拒否され、結局2日後に死んでしまった。医療の現実は、この冬のように暖かくはないみたいだ。しかしその原因を医者や看護婦だけに押しつけてはならないと思うんだ。


1月15日 芥川賞 平野啓一郎氏

 第120回芥川賞(日本文学振興会主催)の選考会にて、平野啓一郎氏が芥川賞に選ばれた。

 平野氏は現役の京大法学部4年生(5回生・元小野ゼミ)で、歴代4番目の若さだそうだ。私もこの作品を「新潮8月号」で軽く目を通したが、素人目から凄いとは感じた。ただ、異様に漢字が難しく、またその雰囲気の重さからして、私を含めた90%の文学無関係人にはとても読むことのできない作品だけれども・・・。

 しかし私が今回思ったことは、京大法学部もこのような人材を輩出する程に、まだ死んでいないな、ということだ。私は氏に遠く文学才能で及ばない(この文章ですら、拙い)が、自分なりの分野でいつの日か、必ず活躍したい、特に今日はそう思った。

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