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藤本一郎の「つれづれなるままに」 2001年 7〜9月 |
確かにテロリストを放っておいてはダメだろう。ラディン氏が犯人ならば、捕まえねばならない。
しかし、今回、米軍がアフガニスタンに侵攻する理由など本当にあるのだろうか。
湾岸戦争以上の軍事力で侵攻するなんて、馬鹿げていないだろうか。
それにお金を出そうとしてる日本も馬鹿げてるのではないか。
戦争が仕方ない場面もあり得ると思う。
人を殺すことが正当防衛になることがあるように。
しかし、今回、ラディン氏を捕まえようとする以上のことをするのは、仕方ない戦争といえるだろうか。
正直、アフガニスタンの9割を支配するタリバーン、彼らはとんでもない奴らだ。
彼らは、女性に対しては普通教育の要なしとする。
彼らは、世界的価値のある仏像の破壊を進めた。
だが、ラディン氏を匿っている以上に、今回アフガニスタンを攻撃する理由はない筈だ。
匿っているなら、もっと引き出す努力、まずはラディン氏が犯人であることの証拠固め、そして外交努力をすべきなのだ。
アメリカは過去、犯人固めが不十分だったために、間違った相手に報復攻撃を仕掛けたことが何度かある。もしも今回のテロがイラクによるものだったら??本当にラディン氏の指揮で間違いないのか?
以上のことを考えれば、ラディン氏を正当な裁判にかけることの為に、現時点でアフガニスタンに全面戦争を仕掛けるのは、必要でないし、手段として相当ではない。
アフガニスタンといえば、1982年以後の戦争の歴史を思い出す。そして、ソ連はこの戦争に介入したのに、何の成果もなく負けている。それがソ連崩壊の1因ともなった。
地形的に、非常に厳しい土地である。標高3000mを越す地域も多い。全面戦争となれば、イラク侵攻とは違い、アメリカ軍をしても、そう簡単にやっつけることはできないのではないか。米軍にも、アフガニスタン市民にも、アフガニスタンの軍にも、多数の死傷者がでるのは分かり切ってる。
そういえば、今回漁夫の利を得ようとしている国があることも指摘しておかねばなるまい。
某国は、今回の事件で喜び勇むパレスチナを標的に、また攻撃してる。
ニュースとしては目立たないけど。
アメリカが和平をしようとせず、私利に走ったために、パレスチナも、アフガニスタンも、多数の一般市民が死ぬ。
それで、世界の警察と言えるのか。
昔からそうだが、アメリカは白人以外の人種に非常に冷たい。
アフガニスタン市民や、パレスチナ市民が死ぬ事なんて、大したことじゃないと思ってるのではないか。
「先進国」かもしれないけど、黄色人種である日本こそ、こういう時に、アメリカの頭を冷やす役割を果たすべきだ。
テロに対する非難では、協調してもいいけど、全面戦争は思いとどまらせないと、何のために日本があるのか、分からなくなる。
まさか、小泉、また90億ドル出して、「同盟国」ぶろうなんて思ってないやろうな!
ちなみに、今の日本には、誰からも喜ばれない90億ドル、ドブに捨てるほどの余裕はないぞ!
もう1度繰り返す。今回、この段階で、外交努力もせずに全面戦争をすることは、アメリカという超大国が「かっ」となって、野蛮な行為をしようとしてるに過ぎない。
私も、テロを許すべきではないと思うし、断固たる措置を取るべきだとは思う。しかし、本当にラディン氏が犯人かどうかを確定させ、ラディン氏の引渡努力をある程度継続させた後でも、良いのではないのか、攻撃を仮にするとしても。
余談だが、こんなに書くと、俺も「エシュロン」によって警戒され始めるかな。
インターネットはアメリカ等英語圏5カ国共同監視システム「エシュロン」に常に検閲される可能性があるということを、みなさんはご存じだろうか。ひどいプライバシー侵害だ。欧州では正式に非難の声を挙げる国があったが、日本は何故これを放置するのであろうか。
敗戦は兵家の常、と言っていられたのは、近世までだろう。
近代以後、市民の権利こそ、守られるべきものとなったからには、仮に「臣民」にすぎないとしても、リーダーは、自国の民が死んでいくのを、苦しんでいくのを放置してはならなかった。
小泉首相の靖国神社参拝により、A級戦犯の合祀の問題が再び議論となっているが、要するに、なぜこれだけ騒がれたかというと、政教分離の問題と共に、なぜ、当時のリーダーが手厚く埋葬されているところを、公式に(小泉首相は公的・私的の区別を明確にしないが)参拝する必要があるのだろう、という問題があるからである。
極端と思うかもしれないが、見方によっては、ヒトラーが祀ってある特定宗教の施設に、ドイツの首相が参拝するのと同じことなのである。
なるほど、素朴な日本人の心境からすれば、神社に初詣に行くのと同じ。特定宗教といっても、慣習みたいなもので、終戦記念日に靖国に参拝することが、どこが変なのか、いいじゃないか、という結論もあり得よう。
ただ、終戦記念日に靖国神社に参拝することが慣習化しているだろうか。初詣と同視できるのだろうか。
もしいまだ同視できるレベルでないとすれば、小泉首相が、靖国神社という特定宗教を、助成したのと同じことになる。小泉首相の参拝を契機として、靖国神社と首相が結びついて、特定宗教観に基づく政治が行われるかもしれない。
そんな、宗教に基づく政治なんて、現実味がない、と思う人もいるだろう。
でも、例えば今のイランを見て欲しい。国民、特に若い人たちは、改革派のハタミ大統領を支持し、現に再選されている。しかし、宗教トップの最高指導者、ハメイニ師に逆らって政治をすることはできない。宗教が政治中枢を支配していて、宗教に影響された少数派の保守派の方がむしろ影響力を持ち、最高裁判所の裁判官等の指名すら、満足にハタミ大統領が行えないのが現実である。
宗教というものは、価値・概念の多様性を認めない。神に相当するものを想起し、価値の絶対性を認める。すると、その宗教に賛同する人にとっては、とてもありがたいものであるが、しかし嫌と思う人にとっては、大変迷惑な話となる。政治と宗教が結びつくと、嫌という人にも、現実に、特定の価値観が押しつけられる。イランがある意味典型的な例である。
まあしかし、あれはイスラムだ、という人もいるだろう。イスラムには西洋民主主義思想は合わないと言うかもしれない。じゃあ、56年前までの日本はどうだったのか。現に、たった56年前に、何があったのか。それを考えねばならない。
A級戦犯の問題も、死者を良い死者と悪い死者に厳密に区別できるのか、とか、死んだ人を悔やむのは差を設けるべきでないとか、議論のあるところである。
ただ、その「普通の感覚」を指導者にまで及ぼせば、責任の所在を不明確にする。それは、果たして、戦争の清算を済ませたことになるのだろうか。一宗教施設であれば、まあ良いが、少なくとも、一国の首相が参拝しようとするところであれば、よくよく考えねばならないだろう。
いずれにせよ、小泉首相のおかげで、もう1度、正面から、戦争問題を考え直す契機は与えられたといえる。
中国や韓国が文句をいうから、仕方なく、ではなく、我々自身の問題として、終戦記念日を捉えるのが、良いのではないか。そして、小泉首相ですら、感性で行動してしまう靖国問題を、首相と一緒に、考え直す時が来てると思う。
いろいろな思いが交錯する。
「俺って、コドモやなあ・・・なんでそんなに意地を張るんやろうか」という思い。・・・2ヶ月前に閉鎖しておけば、良かったのだろうか。
「なんで閉鎖せなアカンのやろうか・・・」・・・どこかで引っかかる思い。
私は、確かに人によく嫌われる。
自分では嫌われようと思ってる訳じゃない。
ただ、生意気なんだろう。
でも、でも・・・・。
誰をけなそうとしたのでもない。これだけは分かって欲しい。ただ、自分の感じたままを、伝えたかった。
下手に憲法を勉強したのがまずかったのか、バランス感覚を欠いてるのか、まだよく分からないけど、ただ、ちょっと悔しかった。
そう習ったと思う。
しかし、広島は、復帰した。
1950年、広島カープ設立。
1967年ころ、原爆ドーム取り壊し反対運動、大保存運動。
1975年、新幹線が広島にも開通、広島カープ初優勝。
1980年、広島市、政令指定都市になる。
1990年ころ、人口も100万を越えた。
私は、そんな中、1975年11月16日、生まれた。
両親は、広島出身ではない。でも、私は広島生まれだ。
京都に住もうと、和光に居ようと、肉親に被爆者がいなかろうと、この日を忘れることはできない。
私は、そうやって育ってきた。
たぶん、毎年同じことを書いてると思うが、1回生の時、京都大学の某国際関係論ゼミで議論したとき、かなり違和感を覚えた。
私が高校までで習ってきた、核に関する考え方は、どうも、若い人の「通説」ではないらしい。
広島の平和資料館では、核抑止論によって、米ソがいかに馬鹿げた核拡散競争をやってきたか、という感じのコーナーがある。今もあるのかな。
でも、核抑止論は世界の通説だと言われた。授業もそれに沿って進む。
国際関係論というゼミだからだろうか。それとも、エリートは前線に行かないと思ってるのか。戦時となれば兵士となって戦うべし、と言い切るヤツもいた。それが愛国心なのか。私は日本が大好きで仕方ないが(だからこの国の将来を真剣に憂うが)、そういう類の愛国心は、せいぜいゲームの中でしか抱いたことがない。「提督の決断」とか。
そういえば、そういう核に関する議論は大学1回生以来、余り交わさなくなったかな。
私は、法律バカになっていないだろうか。
うまく書けないが、56回目の原爆祈念日。
祈ろう、そして、私も平和に貢献しよう。大したことはできなくても、何かあるはずだ。
大学時代、何人か、友人を平和公園に連れていった、そういうことでも良いじゃないか。
あの時私はまだ小学5年生だったと思うが、まあ、細かい政策の違いはまだ分からなかったが、朝起きて、自民党の300という議席数(当時衆議院は512議席)を見てびっくりしたものだ。
さて、この結果をどう読むべきか。
15年前の選挙では、自民党と中曽根、双方が信任され、臨時行政改革審議会等の方針も承認された、と思われた。
ところが、その4年後、中曽根氏が導入したかったが、選挙で導入しないと言った消費税の導入で、自民党が歴史的な敗北。1人区でも、私の記憶が正しければ、14くらいで社会党の議員が当選したのだ。
この選挙結果は、要するに、改革は、ウソがあったり、説明不足なら、挫折するということだ。
思えば、この89年の選挙直前、竹下内閣では「ふるさと創生1億円基金」とかいう名で、全国の自治体に、無条件で1億円プレゼントしていた。
行政が、適当にお金を使っていながら、いきなり、事前の説明とは全く異なる増税をしたのでは、誰も納得しない。ごく当たり前の選挙結果だった。
この教訓が、自民党に生きているのかな。
生きていれば、まず、我々に、ウソをつかない、それが最低限だ。
次に、我々に、改革の道筋を示す。80年代のような、どっち向いてるのかよく分からないことをしてくれると、また増税となった時に、誰が納得するだろうか。
いずれにせよ、我々は、小泉純一郎と、自民党を信任してしまった。
もしも裏切られれば、日本新党の細川護煕元首相に感じた時とは、比べモノにならない失望感を感じることになろう。そうなれば、この国はおしまいだ。「90年代=空白の10年」では終わらなくなってしまう。まあ、そうなれば自民党は潰れるしかないな。
この方式を次回以後も続けるなら、まず手続面の面倒さの解消のためにも、コンピュータ処理、マークシートの検討をせねばダメだろう。
この点については、かつて、自民党・社民党・さきがけで公職選挙法改正をした時、自民党が「候補者名を自署させる方がええ」という理由で、そのままになった。
しかし、変な意地は捨てよう。開票に無駄な手間をつぎ込んでお金を無駄にすることこそ、構造改革に反している。次の選挙まででこの点が直ってなければ、小泉改革も所詮その程度だったということになる。
もう1つ、非拘束名簿式という方法の功罪だ。
著名人と、組織がある人だけ、当選する。
純粋に能力がある人が、当選できない。
能力があるが知名度のない人の挽回手段は? ネット選挙活動がダメな現在では、ほとんどない。
金がかからないが、いろいろな人、全世界にアピールできるネットでの選挙活動の完全自由化、これを、是非検討して欲しい。
最後に、次回は、おそらく衆議院選挙になるが、こちらは、比例区にもちろん個人も立候補してるのに、党名でしか投票できない。
混乱する人が絶対出てくる。参議院と衆議院の選挙制度は、多様な世論の反映等の目的のため、統一する必要はない。ただ、非拘束名簿式か、拘束名簿式かは、統一した方が良い。
衆議院も非拘束名簿式にして、小選挙区議員の重複立候補をやめにするか、参議院は拘束名簿式に戻すか、どちらか検討した方が良いだろう。
高校時代、3年間、同じクラスになった友人がいた。
親友、とまでは呼べなかったかもしれないが、でも仲の良い友だったと思う。
そいつは、すごいクラスとかを盛り上げるのがうまかった。
いつも笑顔だった。
なんか、気分が滅入ってる時でも、ひたすら明るかった。
多分、私と違い、誰もあいつを嫌うヤツなんて、いないだろうな、という人物だった。
なのに、今朝、バイクの交通事故で亡くなった。
色々な事を考える。
人生って、ホント、70か80位まではあるもの、と当然のように思ってた。
それでも、こうやって、突然死んでしまう人がいる。
昨年1月、大学のサークルの先輩で、司法試験合格直後に白血病を発病してしまった先輩が亡くなった時も思ったけど、どうして、すごく良い人から亡くなってしまうんだろう、と思う。
とりとめのない文章だが、とにかく、友人の冥福をお祈りしたい。
今、この「つれづれ」も和光の寮で書いている。
さて、で、後期修習である。
司法修習における後期修習とは、卒業試験(我々の世界では「2回試験」という名が広く通用している)に向けた修習で、ひたすら起案(テストみたいなもの)が多い。
昨日まで土日を挟んで3日間連続、今日も起案がある。
これが結構難しい。もう、くたくただ。
で、クラスの雰囲気も、前期中とは異なり、かなりお疲れムード。
まあ、国民の税金でやってる勉強だから、勉強第一なのは当然なのだが、しかし、それが2回試験に役立つ勉強第一主義だから、ちょっとまずいのかもしれない。
例えば、ウチのクラスでは、刑事模擬裁判の「主役」である、法廷内の役にあまり人気がなかった。真っ先に法廷内検察官のところに名前を書いた私は、少し寂しかった。傍聴席の役(ただの傍聴人ではアカン、ということで、一応傍聴席にも、弁護、検察、裁判所のどれかのつもりで傍聴しろ、という役は回る)はもう抽選になる位の人気だったのに。
模擬裁判(これ自体は卒業成績とはほとんど関係ないとされる)が、2回試験直前にあるから、なのだろうが。
修習期間を2年から1年半にけずった国(=国会=国民)が悪いのか、修習生を1000人に増やしたことが悪いのか(でもそうなら、3000人にするらしい近未来はどうなる?)、それとも単純に我々が出来が悪いだけなのか、そこはよく分からない。ただ、ちょっと寂しいと思っただけ。
さて、2回試験が9月半ばからだから、もう実質2ヶ月の和光生活。
これから、このままお疲れモードで移行するのか、後期修習なりに盛り上がるのか。
とりあえず、今日の起案(刑事裁判)の勉強、再開するかな・・・・。
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