藤本一郎の「つれづれなるままに」
2001 4月〜 2001 6月

2001年6月23日 大教大附属池田小学校を見て

 例の事件は、丁度2週間前になるのであろうか。
 死者8名を出した、大教大附属池田小学校(ここの読者は広島の人も多いと思うが、簡単に言うと広大附属のような小学校)での事件。
 今週の水曜日、その現場を見に行く機会があった。というのも、水曜の夜は、大阪府警第2方面の警邏パトカーに同乗するという研修があったからだ。

 そこには、TVで報道されてるような、花束などもたくさんあった。
 しかし、私を含め、同乗した3名の司法修習生の目に最も焼き付いたのは、余りにたくさんの、「ハシゴ」であった。
 報道陣が、取材しやすいように、周辺のフェンス沿いのあちこちに、ハシゴを置いてるのである。

 私は、憲法ゼミの出身であるし、「表現の自由」は最大限尊重されなければならないと思っている。
 しかし、このハシゴの山、これは、池田小学校に通う小学生、及び同施設内の附属中学、付属高校の学生にとって、どういう影響を与えるだろうか。
 興味本位で覗かれてるのではないか、いつまでも全国民が野次馬として小学校のフェンスによじ登ってるような印象を与えるのではないか。

 例えば、ある程度系列の新聞社とTV局は協力して取材をするとか、それがダメなら、本当に撮影するときだけハシゴを持ってくることにして、撮したりしない時は、片づける位したらどうだろうか。
 報道陣に、「伝える」こと偏重の奢りはないか。

 憲法は、表現の自由と同様に、プライバシーの権利も保障していると解されていて(13条参照)、かつこれは、ともに精神的自由権の中心部分であるから、両者が衝突するときは、等価値的な価値判断をせねばならないと解される。
 報道陣は、自主的に、この辺の価値判断を尊重せねばならない。

 ・・・これはしかし、他人事ではないな、とも思った。
 誰だって、一方当事者に加担すれば、バランスを失うことはあり得る。
 弁護士などは、特に、一方当事者代理人となって相手方を攻撃するのであるから、特に注意しなければ。。。。

 そういう意味では、大変価値のある、パトカー研修とすることができた気がする。


2001年6月8日 覚せい剤

   んー、最近自分の文章が冴えないなあ・・・と思う。まあいいや。

 さて、私は最近よく見るドラマがある。
 「R−17」という、木曜午後8時54分からのテレビ朝日系列のドラマだ。
 17歳の女子高生に焦点をあてたドラマだが、ズバリ、覚せい剤がテーマである。
 現代社会において、広く根を張る覚せい剤。これにはまってしまう女子高生の姿を、やや誇張して映し出してはいる。しかし、検察庁で、たくさんの覚せい剤取締法違反事件を目にしている私には、ただの絵空事には見えない。

 まず、簡単に覚せい剤が手に入ってしまう現実。これは紛れもない事実だ。
 関西人なら誰でも知っているだろうが、西成とかに行けば、0.5gが1万円程度で買えてしまう。
 勿論、そこでは警察が常に売人の動きを見張っており、その場で覚せい剤取締法違反で現行犯逮捕されることもしばしばである。しかし、そこをうまくすり抜けた者は、それから覚せい剤にはまってしまう。

 ところで、覚せい剤で、(1)集中力が付く、(2)眠気が醒める、(3)やせる、というのは、全て事実だ。しかし、(1)(2)は、その反動で効果が切れたら急激かつ強度の脱力感を覚え、それが(4)更に覚せい剤を必要とする欲求に結びつく。辞められないのである。
 また、(3)痩せるというのも、覚せい剤を常習使用してる人の顔を見たらよく分かる。不自然なやせ方だ。お腹は引っ込まない。顔が不自然に痩せる。うまく言えないが、20代なのに、40代のような老け方をする。不健康な顔になる。

 覚せい剤は、「うまく付き合える」ものではない。確かに一時的・短期的には人間に有用な効果もある。しかし、人間にはコントロールし辛い禁断症状によって、地獄に落ちてしまうことを、忘れてはいけない。いくら意思が強くても、眠気とかが意思で解決できないのと一緒。タバコがなかなか辞められないのとも似ている。

 「Rー17」は、テレ朝にしては意外と面白く、多少は覚せい剤の勉強にもなるので、一つ、勉強のつもり?で見てみるのも良いのではないか。

 ちなみに、覚せい剤所持の初犯は、懲役1年6月、執行猶予3年の有罪判決となる。刑務所に入らなくても良いが、逮捕・勾留による身柄拘束が13〜23日間続いて起訴され、裁判が終わるまでの約2〜3ヶ月は保釈されない限り更に身柄を拘束される。
 2犯目だと、懲役1年6月から2年の実刑判決になり、かつ、前の執行猶予満了期間前であると、前の執行猶予が取り消され、合わせて3年以上懲役になってしまう。
 それだけではない。大抵、覚せい剤を常習使用していくと、仕事なんてできなくなる。金がなくなる。金がないと生活できないのは勿論だが、覚せい剤を買えない。窃盗、恐喝、強盗、強姦といった犯罪を犯すきっかけになってしまう。そうすると、もっともっと思い実刑が待っている。

 覚せい剤所持、使用は、犯罪である。現場を生で見てる者からの、警告だ。

 


2001年6月3日 集団的自衛権の行使

   まずは、朝日新聞の引用。

 訪米中の与党3党幹事長は1日、国務省でパウエル国務長官、アーミテージ副長官と会談した。アーミテージ氏は日本の国連平和維持活動(PKO)参加について「一緒に参加している国の部隊に守ってもらう状況があり、かえって他国に迷惑をかけていることもあるのではないか」と述べ、参加形態の見直しを暗に求めた。

 アーミテージ氏はアジア情勢について「一夜明けたら大戦争という可能性が依然としてありうる」とし、中国問題を「アジアの安全保障で最大の問題」と位置づけた。「ブッシュ大統領は小泉首相が中国問題をどう考えているかに関心を持っている」と述べ、今月30日の日米首脳会談で中心議題として取り上げる考えを示した。

 また、日本の集団的自衛権の行使について「議論が行われることは日本のためにもなると思う。進め方については日本の国内問題だ」と述べた。

 日本の首相が、小泉純一郎という、支持率の大変高い首相になったこと、かつ、彼が、右傾化した思想の持ち主であることから、米国ブッシュ政権は、この機に、「日本も普通の国に」となることを狙っていると思われる。日本国内の世論が、今ならついていくと考えてのことであろう。

 要するに、日本に集団的自衛権を行使して欲しいのだ。

 そもそも集団的自衛権(国連憲章第51条)とは、日本が、他国のために自衛権を発動すること(政府解釈によると「自国と密接な関係にある外国への武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力で阻止できる権利」)であって、自国を守る目的がないことから、「武力の行使」(憲法9条1項)に該当すると言われ、憲法違反とされる。
 戦争ならどれも憲法で禁止されている。自衛戦争であっても然り。ただ、(戦争とは区別された)自衛権の行使は、いわば刑法でいう正当防衛であって、例外的に許されると、解されている(佐藤幸治『憲法(第3版)』650〜653頁)。しかし、刑法での正当防衛と異なり、他国のための自衛権の行使は、憲法の例外的に認める自衛権の行使とはいえず、憲法が全面的に禁じる戦争に該当するのである。
(この点、憲法解釈上、「国権の発動たる戦争」も「国際紛争を解決する手段」以外なら認められると解する見解もあるが、その場合でも結論は同じ。この点は前掲佐藤を参照)

 従って、集団的自衛権の行使は、憲法改正を伴う。この点までをまず確認する。

 以下、本論に入る。
 私が訴えたいのは、この集団的自衛権の行使を解禁すべきかどうかは、本当の意味で国民がしっかりした議論をせねばならない、ということである。  具体的にいうと、現在、小泉氏の持論に、なんとなく我々も迎合する傾向にあるが、小泉氏は、憲法改正なしでの集団的自衛権の行使すら、滲ませている。しかし、これは許されない。何のための憲法か分からなくなる。自衛隊を保持すること自体は、やむを得ないとしても、集団的自衛権に踏み込むのは、質的に違うことであること、憲法の解釈上無理があることを再認識せねばならない。

 また、集団的自衛権を行使できないと、色々自衛隊ができないことが多いのも、認識する必要がある。例えば、昨今田中外相の発言で問題となった、米国の主導する、ミサイル防衛策も、集団的自衛権の行使と考えられなくはない。PKOは構わないが、PKF活動は、集団的自衛権の行使だろう。
 9条擁護派も、その点はしっかり認識して、「論憲」して欲しい。

 そして、改憲派は、逆にどのように周囲と平和を構築していくのか、歯止めはあるのかをきちんと示さねばならない。改憲を、避けずに説得せねばならない。感情的に、「普通だから」というのでは、困る。

 いずれにせよ、論憲の時代は始まっている。ただ、米国に言われるから改正する、集団的自衛権を認めるのではなく、我々みんなで、選ぶ時期が、来ている気がする。

 ただ、水を挟むようだが、今の日本はそれどころではないのも事実である。まずは、経済的復興を果たさなければ。小泉首相も、具体策がないとして批判されるが、ここだけ具体策では、困る。


2001年5月12日 ハンセン病

 裁判の話。
 熊本地裁での、ハンセン病(らい病)裁判において、国(旧厚生省)の対応や国会の立法不作為が、憲法に違反し、国家賠償法上違法と評価された。

 判決書を読んだ訳ではないので細かな法律論は避けるが、ハンセン病患者を、60年のWTO勧告(隔離は不当で原則外来治療とすべき、とする。治療可能の病気となったことが世界的に承認されたものである。)にもかかわらず、96年まで隔離しておいた政策が、違憲違法と評価されたのは、全く妥当なのであるが、ただ、殊更国に対する訴訟であるから、この常識が、きちんと通用するのか、多少心配であった。

 今回は心配が杞憂と終わったが、国に対する訴訟、特に立法や、行政の過失責任を問うことはなかなか難しい。
 立法や行政の問題は、司法ではなく、まさに政治問題であって、政治で解決すべきであるという統治機構上の理念は、憲法を学習してきた者には分かるが、しかし多くの人々、特に、政治(立法や行政)が動いてくれなかったために現に困って訴えている人には、なかなか分かりづらいものがある。
 なるほど、司法が政治に過度に干渉するのは良くないが、ただ、政治は多数決の世界。少数者の基本的人権が侵害される場合には、むしろ多数決原理の政治では解決できないのであるから、司法が大きく踏み込むことも、憲法はむしろ承認している筈である。それが三権分立である。

 今回以後も、そのような、いわば正義の実現が、法律家に求められる。ただ、今回の裁判を除けば、現行の行政法制度は、必ずしもその要求に応え切れていない気がする。
 そういう意味では、そのような正義の実現がより可能な制度に、行政訴訟全般を改めることも、司法制度改革のテーマであるはずだ。ぜひとも、ロースクールの議論とか、年間3000人の法曹養成とかといった議論のみでない、国民一般の目、国民一般の利益の保護の観点に立った、制度改革が行われるようにせねばならない。


2001年5月12日 国会が楽しい?

 また小泉内閣の話。
 国会での所信表明演説を終え、代表質問が始まったりしたが、小泉vs野党首脳の対決は、なかなか楽しい。
 野党も、比較的紳士的、論理的に攻撃するし、小泉も自分のコトバで返すからなんだろう。

 小泉の登場は、日本の政治にとって、決して悪くないと思った。
 彼は具体性はないし、憲法問題についてはかなりの右であるが、しかしだからこそ、対抗軸もホンキで頑張らねばならない。
 彼一人が目立つだけで終わるなら、日本の政治は終わりだが、対抗軸がきちんと現れれば、もしかしたら、希望が持てる世の中がくるのかもしれない。

 選挙、楽しみかもしれない。

 


2001年5月11日 広島カープ

 恋の季節(んーちゃんと来るのかなあ・・・)、故意の季節(ああ、職業病・・・)、あーどれも違う、そう、鯉の季節(!)なのである。

 セントラルリーグは、三十試合余りの経過の時点で、既に巨人の独走に近い態様であった。
 対抗軸一番手の中日ドラゴンズは、去年もそうだったし今年もそうなのだが、巨人に余りに弱い。このままでは、昨年以上に、あっさり巨人優勝の危機であった。
 しかし、我らがカープはやってくれている。今週火曜からの巨人3連戦は、初戦こそ惜しい負け方であったが、2戦目、3戦目は素晴らしい接戦を制し、巨人の10カード連続勝ち越しを阻止した。
 巨人に行ってしまった江藤は勿論、怪我の前田も、緒方もいない広島カープ。この3名の打てる潜在的な本塁打数は、100を越えるであろう。にもかかわらず、控えや若手が台頭し、ギリギリの戦いではあるが、良い戦いをしている。  最近広島は弱小球団に数えられることも多くなってはいるが、長年カープファンをやってるが、ここ2,3年にはない手応えを(相変わらず投手は弱いが)、私は感じている。

 巨人が本当にこのまま優勝したら、野球なんて何にも面白くない。金だけで勝負が決まってはいけない。Jリーグのように、地域球団だって、日の目を見なければ。

 


2001年4月28日 期待と不安が半分ずつ

 期待と不安が半分ずつ、というコトバを、私の出身中学の校長先生が、良く使っていた。
 ある意味、丁度良い緊張状態とも言えるのか。
 まあ、私が弁護士として、果たしてやっていけるのか、というのも、このコトバが当てはまるが、今日のメーンはこれではない。

 小泉内閣である。

 期待、それは、今のところ、かなり言と動が一致してるところである。
 不安、それは、内閣全体に、実績がない方が多い気がする点である。
 これだけで終わるような、内閣編成だったら、期待と不安は丁度良いバランスで、完全に支持できる内閣だったのであろうが、1点、どうしても、納得いかないことがある。
 財務大臣だ。

 財務に造詣のある大臣なら、79歳でも構わない。逆に、歴代の内閣と比較すれば若手の多い中、副総理とか、そういうポストでであれば、分からないでもない。
 でも、塩川氏の財務大臣就任は、かなり残念だ。

 私の中では、この1点で、期待よりも不安が勝っている。それを逆転するような、成果を、参議院選挙までに、姿だけでも、示して欲しい。私の1票も、それで決まりうる。


2001年4月20日 検察修習2

 昨日、検事と口論になった。

 私の担当している事件の1つに、交通事件があるのだが、その求刑を決める時のことだ。

 ありきたりな業務上過失傷害(人身交通事故)の場合、検察庁では、同種の犯罪が多発していることから、「評点表」という表で被疑者の過失程度を点数化し、それに被害者の被害状況を加味して、量刑表を作成している(勿論、他の犯罪でも量刑表はあるが)。
 私は、担当事件の量刑の考慮のため、量刑表を見せて欲しいと頼んだが、やんわりと、断られてしまった。

 量刑表は、真に検察庁内部資料として、司法修習生に対してでさえ、開示できない秘密資料なのであろうか。
 私は大いに疑問を感じた。

 交通事故は民事の側面でも問題になるが、民事でも、損害賠償額をある程度定型的に確定させるため、加害状況によっていくらの慰謝料を認めるべきか、という裁判所(交通部)の内部資料がある。
 これも、なるほど一般には公開されていないことになってはいるが、しかし、大阪では、実質的には、大阪弁護士会作成の交通事故マニュアル中の表が、その内部資料を元に作成されているとされ、事実上公開されている。要するに、修習生は勿論、一般の弁護士、あるいは一般市民も、どのくらいの怪我をすれば、一般的な事情のもとでどの程度慰謝料が請求できるかは、1冊の本から理解できるのである。
 検事にも直接言ったが、これと比較して、検察庁の閉鎖性は、なんともいえないものがあるのではないだろうか。

 HEROで一躍注目を集めた検察庁も、所詮こんなものか、という印象である。何とも腹立たしい。何のために司法修習を受けているのか、表面だけを修習生に、3ヶ月もかけて見せるのであれば、国民の税金が無駄に使われているということになるのではないか。

 検察庁で面白くない思いをする数少ない修習生の愚痴・・・共感は得られるか、ただの曲がった修習生ということになるのか、世間?の批評を待ちたい。


2001年4月11日 検察修習

 司法修習生の実務修習は、1年目の7月から、2年目の6月まで、1年間に渡り、4つのクールに分けて行われる。
 この4月から、私は、最終4クール目の検察修習に突入した。

 検察修習といえば、つい最近まで「HERO」があったこともあって、良い職場と思われるかもしれない。
 確かに仕事は立派な仕事だろうし、仕事そのものはとても魅力あるものだ。でも、どーもここは堅苦しい。
 個々が基本的には独立している弁護士業、憲法上、自己の良心と法以外からの独立が認められる裁判官と比べ、「検察官一体の原則」の働く世界だからか、「組織」だからか、堅苦しいのだ。

 例えば、修習の開始式。弁護士会は勿論、裁判所でもなかったものがあった。大阪地検8階の大会議室には、「日の丸」が高々と掲げられて式典は行われた。
 無論、「国旗国家法」により根拠をもつようになった国旗であるから、そのこと自体はまあ法的には良い。ただ、堅苦しいのだ。
 あと、意味のない行為を修習生に強いることが多い。何も用事がないのに拘束することが多い。

 まあ、最初だけかもしれないが、何ともいえない堅苦しさ、今後が少しだけ不安だ。

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