男役は巫女である ('04.4.8)  
       
タカラヅカは一種の宗教だと言う人がいる。熱狂的な出待ちの風景、髪振り乱したファンの様子、お茶会で男役スターの話を畏まって聞くファンの姿はまるで新興宗教そのもの。それらを嘲笑して宗教とみなすのは、ある意味正しいと思う。劇場はひとつの宗教空間であり、ファンは宗教儀式につどう信者だ。舞台は祭壇であり、ファンはお布施を払って神様を拝みに行く。そこでは、現世の常識は通用せず、宗教空間だけの慣わしが最優先され、信者は万難を拝し宗教儀式に参加し、そのことをありがたいと心から思い、しかし時には信者でいることに疲れ、倦む・・・。

では、神様とは一体誰なのか。男役なのであろうか。祭壇の中心に立ち、舞い踊る、あのトップスターが神様なのだろうか。ファンは神である男役スターを崇拝し拝んでいるのだろうか。では神様は次々と代替わりするということなのか? 

大劇場正月公演と同じ演目を東宝で観劇した。3週間ぶりの東宝だ。白い服を着てまさに某宗教団体のように集団で行動して、異常なぐらい泣いたり笑ったりしたその日以来はじめて、この宗教空間に足を踏み入れる。劇場いっぱいに空気を吸う。劇場は変わらずそこにあり、ヅカファンは変わらずその客席を埋め、開演時間になれば幕があき、宗教行事が始まる。演目は奇しくも<ご贔屓>が特出した作品。該当場面を違う人が受け持っていることに、最初は戸惑いつつも、タカラヅカの楽しみを削ぐほどのものではなく、総じて楽しかった。黒燕尾の男役たち、ジャズのリズム、ベタなラブソング、派手な衣装とまぶしい照明・・・出演者に関わらず、タカラヅカは楽しい。タカラヅカの舞台には、やはりタカラヅカの神がいると思った。

にもかかわらず、この距離感はなんだろう。私には神の声が聞こえてこないのだ。目の前の舞台に神がいることはわかる。みながそれを拝んでいることはわかる。けれど私には見えないのだ。黒燕尾の男役はそこに歌い踊っている。ああ、これがタカラヅカの楽しみなのだなあ、タカラヅカの神みたいなものがあるんだなあ、と思う。しかし、私が拝むべき神の姿はもやもやとそこに存在するだけで、くっきりと像を結んでくれない。ベタなラブソングがそこで歌われている。これよ、これ、これがタカラヅカの面白さなのだなあ、と思う。しかし、私が拝むべき神の声はあわあわとそこに存在するだけで、はっきりとは聞こえてこない。私の<ご贔屓>のみが神であるなら、舞台上に神がいるとは思わないはずだ。しかし、神がそこにいることはわかる。一方、今舞台上にいる花組トップが神であるなら、私は距離感を感じないはずだ。しかし、神の姿は私には見えない。これは一体どういうことなのか。

スターは神ではなかったのだ。スターは巫女だったのだ。ファンが拝んでいるのはタカラヅカそのものという神であり、タカラジェンヌはその神に若く限られた時間を捧げる巫女なのだ。信者に神の存在を顕現させる巫女なのだ。男役の神が巫女に降臨し、信者はそれを拝む。娘役の神が降臨し、信者はそれを拝む。タカラヅカのさまざまな様相は、巫女の姿を通してのみ、はっきりと我々の前に現れるのだ。

私は巫女を失った。だから神の姿が見えない。感応する巫女を持つ信者には神の姿が見えるのだろう。巫女を通して神をあがめるため、今日も彼らは劇場に通う。劇場前で出待ちをする。巫女は次々と代替わりし、信者も入れ替わりし、しかし決して絶えることはなく、神は永遠にその姿を保つ。

そもそも演劇は神に捧げるものだったという。その原型が、タカラヅカという閉鎖された空間に、今も息づいているということなのだろう。私の巫女は還俗したが、タカラヅカの神はまだ舞台に鎮座している。その存在を確かめに、そして現役の巫女たちを眺めるために、私はこれからも時には宗教儀式に参加する信者でありつづけると思う。

 
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