セクハラ社会のアジール―タカラヅカ ('05.2.11)  
       
現在公演中の『青い鳥を捜して』は、大人のラブコメディと銘打たれ、ワイワイ言って最後はホロリとするお話。石田作品は、座付き作家らしくみんなに役があって、とても善良だ。だけどいっつも何かひっかかるんだよね。今回もひっかかる台詞が二三あった。「ん?」とイヤな感じがして、その一瞬心の耳をふさいで、でもまあ作品を全面否定するほどじゃないから、結局はやり過ごす。いつもそんな感じ。友人に感想を聞くと、数人が「楽しかった。けど、あの台詞はちょっとね」「タカラヅカでは言ってほしくないよね」と、但し書きをつけていたから、そう思うのは私だけじゃなかったらしい。

たとえば、ヒロインが、倒れたヒーローに人口呼吸をした後に言う「久しぶりかも〜」という台詞。気になる。とっても気になる。恋愛(もっと言えば性的交渉)から遠ざかっている女性を茶化した台詞である。まったく同じ台詞が、齋藤作品『Lica-Rika/L.R』でも使われていた。いわゆる「女役」がトップスターに胸を揉まれて言う台詞だった。恋愛する意欲(もっと言えば性欲)が過剰なのに、その相手となる男性からは、容姿および年齢の条件により拒絶される女性を、笑う。よくあることじゃん。テレビとかだとさ。典型的に笑うとこじゃん。今回の作品では、ヒロインが自分をそれにあてはめて、自分で自分を茶化しているわけ。

たとえば、ヒーローとヒロインがコテージで一夜を過ごした翌朝の場面。下着会社の社長令息であるヒーローがヒロインに「君がわが社の製品を愛用していてくれたとはうれしい」「いや〜ん、もう」みたいなやりとりがある。気になる。とっても気になる。でも、もし普通のドラマでのやりとりだったら、気の利いたとは全然思えないけれども、でもそんなには気にならない、かなあ。

ほかにも、「オカマ」が出てくる。ヒーローがヒロインと見間違えて呼びとめたら、オカマだった、わはははは、と笑う場面。それって、異性装の人とかに対する差別なんじゃないの…と思う。でも、世間一般のお笑いだったらよくあるような気がする。

私は、自分がなぜこれらに不快感を感じるのかということもさることながら、ほかのジャンルならさして気にしないことを、タカラヅカだと許せないと思う、自分のありようが一番不思議だ。上にあげた例のどれもが、タカラヅカでなかったら耳をふさぐほどには嫌悪しないと思う。「ま、そういうものでしょ」と思う。なのに、タカラヅカでやられると嫌なのだ。そりゃー、夢の世界だから、それを壊してほしくないんでしょ、女性ばかりの世界でそれを言ったらダメなんでしょ、と片付けてしまうこともできるだろう。でも、逆に考えてほしい。どうして、“してほしくないこと”が、タカラヅカ以外ではオッケーなのか? どうして、夢の世界で不快なことが、女性ばかりの世界で不快なことが、女性ばかりじゃない現実の世界ではオッケーなのか? 

外の現実の世界には、“してほしくないこと”がいっぱいなんだ! でも私、それを許しちゃってるんだ! なんということだ。私はそれこそ男性からしたらすごくイヤな奴で、「やっぱり女は子どもを産まないと」などと言う親戚には「セクハラだからおまえとは二度と会わない」と言っちゃうようなヤツなの。それほどまでの私なのに、電車の中でスポーツ新聞のエッチ紙面を広げているオヤジのことは、「そういうこともあるかもね」と思ってしまっている(自分は『歌劇』とか『宝塚GRAPH』すら電車の中では恥ずかしいから広げないようにしてるのにさ)。醜さをウリにする女性タレントも、若くなくなった女性タレントの扱いも、そういうものかもと思ってしまっている。でも、本当はイヤなの。女性をおとしめることはみんな嫌い。異性装の人はあたたかく見ていたい。脱毛した男の人も、太った男の人も、誰もけなしたくない。だけど、そんなこと言ったら「子どもだ」と思われる。おまえは大人の恋愛を、大人の機微を知らないのかと言われる。だけど、その「大人の恋愛」って、男の欲望に従うことなの? 「大人の機微」って少数派をおとしめて楽しむことなの? そんな基準を自ら取り込んでしまうことなの? まさに「ダブルスタンダード」だ。私は“外の基準”を許容し、自ら取り込んでいる。だけどタカラヅカを見るときは“外の基準”を拒否している。私の中には2つの基準が存在しているんだ。

石田は「ある程度、保守的な所を守りながら、新しいものを入れていった方が良いと思うんですね。(略)ロックを観た人も(略)歌舞伎を観た人も別の意味で宝塚を観てほしいし」(『歌劇』86.6)と言う。それはもちろん賛成だ。新撰組や蒲田行進曲といった題材をとりあげることで男性客が興味をもってくれるなら、とてもいいことだと思う。でも、“外の基準”を取りこむことが男性客を誘致することだと勘違いしてはいないだろうか? そんな基準を自らの基準のように思いこんで我慢することが「大人の恋愛」だと勘違いしてはいないだろうか? オトメはそんなことすぐに見ぬいてしまう。オトメたちの反感を買って、でもそんな小手先で男性客が増えたとも思えない。電車の中でエッチな紙面をひろげている人がいて、それが社会の基準であるなら、それは変えるべきではないのか? “オトメの基準”が世界に広まるように、こっち側から変えていくべきなんじゃないのか? タカラヅカが夢の世界なんじゃなくて、タカラヅカの“外”がひどすぎるだけなんだよ。

私はもう、不快なことを我慢したくない。それはセクハラです! と言いたい。そんなことで笑うのはよくないよ! と言いたい。電車の中でオヤジに、そのスポーツ新聞を今すぐ閉じてほしい、と言う。言うんだ。…言えるだろうか…。うーん、やっぱり言えないんだよなあぁ。「子どもだ」「これが常識なんだから」って言われちゃうもの。私のほうが異常だってことになっちゃうもの。だからこそ、タカラヅカを観に行くのかもしれない。あそこはまさにアジール(=聖域、避難所)だ私たちの感覚が異常だとは思われない世界。セクハラが無い世界。あってもこの作品のようにファンが異議を唱えて自浄していく世界。誰も他人をおとしめない世界。…“外”も、いつかそんな世界になったらいいのに。

 
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