(上) 千畳敷砲台の平面図
 1948(昭和23)年頃撮影の空中写真より。正面(西側:函館湾入口)防御の28cm榴弾砲6門と背面(北西側:函館市街地方面)防御の15cm臼砲4門からなる南北に長い形状の堡塁砲台である。終戦時には、28cm榴弾砲が第三砲座に2門残っていた。進駐軍によって棲息掩蔽部等が破壊され、現在も大部分が藪に埋もれている。戦後、〔28cm榴弾砲用〕第二砲座の位置に国鉄無線通信所(現:JR無線通信所)・〃第三砲座の位置に海上保安庁無線局(その後撤去)が建てられた。

千畳敷砲台


千畳敷砲台の略年表
1897(明治30)年11月 函館要塞砲兵大隊の編成。
1898(明治31)年7月27日 勅令第百七十六号として「要塞近傍ニ於ケル水陸測量等ノ取締ニ関スル件」が公布。
1898(明治31)年9月 千畳敷砲台の起工。
1898(明治31)年9月28日 陸軍省告示第十一号により函館要塞周辺区域が明示された。
1899(明治32)年7月14日 法律第百五号として「要塞地帯法」が公布。
1899(明治32)年8月11日 陸海軍省告示により函館要塞地帯が明示された。
1900(明治33)年4月 函館要塞司令部開庁。
1901(明治34)年1月 千畳敷砲台の竣工。
1901(明治34)年7月 千畳敷砲台に、15cm臼砲4門据え付け完了。
1902(明治35)年11月 千畳敷砲台に、28cm榴弾砲6門据え付け完了。
1903(明治36)年12月31日 陸軍大臣より函館要塞射撃準備の内達。
1904(明治37)年1月17日 御殿山第一・第二砲台、千畳敷砲台の射撃準備完了。
1904(明治37)年2月4日 御前会議でロシアとの国交断絶・開戦が決定。
1904(明治37)年2月5日 函館要塞・対馬要塞・佐世保要塞・長崎要塞・澎湖島要塞に動員下令。
東京湾要塞・由良要塞・広島湾要塞・舞鶴要塞・下関要塞・基隆要塞に警急配備下令。
1904(明治37)年2月9日 日露戦争勃発。
1904(明治37)年2月12日 函館戦時指揮官に函館要塞司令官秋元盛之大佐が任命された。
1904(明治37)年2月13日 ロシアのウラジオストック艦隊が津軽海峡西口付近に現れ、日本の商船名古浦丸を撃沈。
1904(明治37)年2月14日 函館要塞の本戦備完了。
勅令第三十六〜三十九号をもって、長崎要塞地帯、佐世保要塞地帯、対馬及びその沿海、函館要塞地帯が「臨戦地境」と定められ「戒厳ヲ行フコトヲ宣告」された。
1904(明治37)年7月 ウラジオストック艦隊が、20日に津軽海峡を東に抜け、30日に西に抜けた。
同艦隊は函館要塞に近づかなかったため戦闘は無し。要塞があると敵艦が近づかない戦闘抑止力が証明され、函館は無事だったが、敵艦の津軽海峡通過によって、一時青函航路が麻痺し北海道が孤立した。
(ウラジオストック艦隊はその後8月14日の蔚山沖海戦で壊滅)
 ウラジオストック艦隊による津軽海峡通過を許したために、戦後函館要塞は役に立たなかったという誤った評価がなされてしまっている。
 確かに青函航路の麻痺については批判されても仕方がないが、要塞の最大の目的である「敵軍ヲシテ本湾ヲ利用セシメサル事」(明治31年「函館要塞防禦計画書」)については、十分にその機能を果たしている。
 ウラジオストック艦隊については対要塞戦に勝利するような強力な艦隊ではなかったことが今日までに明らかになっているので、もし同艦隊が函館に接近していれば、要塞からの射撃で壊滅したであろうことは容易に理解できる。
 当時函館が要塞化されていたことは当然ロシアも知っていたので、ウラジオストック艦隊は要塞地帯への接近を恐れていたことが想像される。
 函館要塞、東京湾要塞ともに要塞地帯内への敵艦侵入・艦砲射撃を防いだ点は大きく評価されるべきであろう。
1916(大正5)年7月28日 函館要塞司令官高山重次郎より陸軍大臣大島健一に上申。
当要塞千畳敷砲台軽砲々座(十五臼)ハ首線陸正面ニシテ其射程辛フシテ市街地東北端ニ達スルニ止リ従来防御計画上殆ント之レヲ使用セス従テ床面ノ凍害ニ対シテハ応急修繕ニ止メタルニ漸次其程度甚シク多額ノ経費ヲ投シテ根底ヨリ修繕ヲ要スル状態ニ至レルヲ以テ左記物件除籍相成度及上申候也
左記
一、千畳敷砲台拾五珊米臼砲々座
一、同    砲側庫
一、同    弾薬支庫
一、同    軽砲弾廠及炸薬填実所
1927(昭和 2)年4月1日 「函館要塞司令部」が「津軽要塞司令部」と改称。陸海軍告示第二号によって「函館要塞地帯」は「津軽要塞地帯」と改められた。
太平洋戦争中  この頃には、大間崎砲台と汐首岬砲台による津軽海峡東口封鎖、白神岬砲台と竜飛崎砲台による同海峡西口封鎖が完成していた。
 そのため、函館山には演習用や緊急時対策に残した御殿山第ニ砲台の28cm榴弾砲4門と、千畳敷砲台の同砲2門、潜水艦対策に立待岬に据え付けられた45式15cmカノン砲1門以外に備砲はなかった。
1946(昭和21)年5月 函館山の一般開放。
2001(平成13)年10月 「函館山と砲台跡」が北海道遺産に選定。
 (上) 米国戦略爆撃調査団の報告書より 史料提供:「青森空襲を記録する会」中村和彦様
 函館山の主要な3砲台(右上から順に御殿山第一砲台、〃第二砲台、千畳敷砲台)が記されている。図面中、砲座内の黒丸が調査団が訪れた際に28cm榴弾砲が残っていたところで、白丸は砲が残っていなかったところ。
 御殿山第二砲台に4門と、千畳敷砲台に2門残っていたことが、この図面から確認できる。

※中高生のために補足
Ammo Storage (弾薬庫)
Barracks (兵舎)
Fire Control Center (戦斗司令所、射撃指揮所)
Gun Emplacements (砲座)
O.P.・・・・・Observation Post (観測所)
Parts Storage (砲具庫)
R/F・・・・・Range-Finder (測遠機)

 (上) 砲台北部の広場
 写真左手の道(下り傾斜)が砲台の出口。その右の道(上り傾斜)は、28cm榴弾砲の砲座へ通じる。写真右側正面は弾廠。
 (上3点) 弾廠の外観及び内部
 (上) 〔28cm榴弾砲用〕第一砲座のパノラマ
 写真左手が第二砲座への通路。中央が砲座。胸墻に弾室(凹み)が12箇所、伝声管が2箇所設けられている。右手が地下砲側庫及び右観測所へ通じる階段。1902(明治35)年11月、各砲座に2門ずつ28cm榴弾砲が据え付けられた。