| 1897(明治30)年11月 |
函館要塞砲兵大隊の編成。 |
| 1898(明治31)年7月27日 |
勅令第百七十六号として「要塞近傍ニ於ケル水陸測量等ノ取締ニ関スル件」が公布。 |
| 1898(明治31)年9月 |
御殿山第ニ砲台の起工。 |
| 1898(明治31)年9月28日 |
陸軍省告示第十一号により函館要塞周辺区域が明示された。 |
| 1899(明治32)年7月14日 |
法律第百五号として「要塞地帯法」が公布。 |
| 1899(明治32)年8月11日 |
陸海軍省告示により函館要塞地帯が明示された。 |
| 1900(明治33)年4月 |
函館要塞司令部開庁。 |
| 1901(明治34)年2月 |
御殿山第ニ砲台の竣工。 |
| 1901(明治34)年11月 |
御殿山第ニ砲台に、28cm榴弾砲6門据え付け完了。 |
| 1903(明治36)年12月31日 |
陸軍大臣より函館要塞射撃準備の内達。 |
| 1904(明治37)年1月17日 |
御殿山第一・第二砲台、千畳敷砲台の射撃準備完了。 |
| 1904(明治37)年2月4日 |
御前会議でロシアとの国交断絶・開戦が決定。 |
| 1904(明治37)年2月5日 |
函館要塞・対馬要塞・佐世保要塞・長崎要塞・澎湖島要塞に動員下令。
東京湾要塞・由良要塞・広島湾要塞・舞鶴要塞・下関要塞・基隆要塞に警急配備下令。 |
| 1904(明治37)年2月9日 |
日露戦争勃発。 |
| 1904(明治37)年2月12日 |
函館戦時指揮官に函館要塞司令官秋元盛之大佐が任命された。 |
| 1904(明治37)年2月13日 |
ロシアのウラジオストック艦隊が津軽海峡西口付近に現れ、日本の商船名古浦丸を撃沈。 |
| 1904(明治37)年2月14日 |
函館要塞の本戦備完了。
勅令第三十六〜三十九号をもって、長崎要塞地帯、佐世保要塞地帯、対馬及びその沿海、函館要塞地帯が「臨戦地境」と定められ「戒厳ヲ行フコトヲ宣告」された。 |
| 1904(明治37)年7月 |
ウラジオストック艦隊が、20日に津軽海峡を東に抜け、30日に西に抜けた。
同艦隊は函館要塞に近づかなかったため戦闘は無し。要塞があると敵艦が近づかない戦闘抑止力が証明され、函館は無事だったが、敵艦の津軽海峡通過によって、一時青函航路が麻痺し北海道が孤立した。
(ウラジオストック艦隊はその後8月14日の蔚山沖海戦で壊滅)
ウラジオストック艦隊による津軽海峡通過を許したために、戦後函館要塞は役に立たなかったという誤った評価がなされてしまっている。
確かに青函航路の麻痺については批判されても仕方がないが、要塞の最大の目的である「敵軍ヲシテ本湾ヲ利用セシメサル事」(明治31年「函館要塞防禦計画書」)については、十分にその機能を果たしている。
ウラジオストック艦隊については対要塞戦に勝利するような強力な艦隊ではなかったことが今日までに明らかになっているので、もし同艦隊が函館に接近していれば、要塞からの射撃で壊滅したであろうことは容易に理解できる。
当時函館が要塞化されていたことは当然ロシアも知っていたので、ウラジオストック艦隊は要塞地帯への接近を恐れていたことが想像される。
函館要塞、東京湾要塞ともに要塞地帯内への敵艦侵入・艦砲射撃を防いだ点は大きく評価されるべきであろう。 |
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| 1924(大正13)年7月 |
御殿山第二砲台の28cm榴弾砲6門中2門を陸軍兵器本廠へ返納することが決定。 |
| 1927(昭和 2)年4月1日 |
「函館要塞司令部」が「津軽要塞司令部」と改称。陸海軍告示第二号によって「函館要塞地帯」は「津軽要塞地帯」と改められた。 |
| 1928(昭和 3)年8月28日 |
「御殿山第二砲台」を廃止し「御殿山演習砲台」に用途変更するように、軍務局防備課より津軽要塞司令官へ達案。 |
| 太平洋戦争中 |
この頃には、大間崎砲台と汐首岬砲台による津軽海峡東口封鎖、白神岬砲台と竜飛崎砲台による同海峡西口封鎖が完成していた。
そのため、函館山には演習用や緊急時対策に残した御殿山第ニ砲台の28cm榴弾砲4門と、千畳敷砲台の同砲2門、潜水艦対策に立待岬に据え付けられた45式15cmカノン砲1門以外に備砲はなかった。 |
| 1944(昭和19)年 |
津軽海峡に敵潜水艦を発見。御殿山第二砲台の28cm榴弾砲4門より計8発の砲撃。戦果不明。 |
| 1946(昭和21)年5月 |
函館山の一般開放。 |
| 2001(平成13)年10月 |
「函館山と砲台跡」が北海道遺産に選定。 |