(上) 御殿山第一砲台の平面図
 1948(昭和23)年頃撮影の空中写真より。楕円形に近いすり鉢状の砲座であったことが確認できる。28cm榴弾砲4門が据え付けられ、函館湾側・津軽海峡側の両方を狙うことができた。
 青色の枠内が現存部分。砲座間の地下掩蔽部(砲側庫)や揚弾孔は、函館産業遺産研究会の資料や、国内の他のすり鉢状砲座のある砲台を参考にした推定である。

御殿山第一砲台

 

御殿山第一砲台の略年表
1897(明治30)年11月 函館要塞砲兵大隊の編成。
1898(明治31)年4月 当初、のちの薬師山砲台の位置に巨大な堡塁砲台(28cm榴弾砲4門、15cm臼砲4門、9cmカノン砲4門、機関砲7門)を築城する構想があったのだが、
函館港防御薬師山砲台ノ設計ハ其左翼ニ大ナル除土斜面ヲ有スルヲ以テ側背ヨリスル敵ノ爆裂榴弾ニ対シ危害不少ノミナラス不幸数発ノ射弾ヲ蒙ル件ハ崩壊スル土砂ノ為メニ砲台ノ要部ヲ埋没セラルルノ虞ナシトセス特ニ砲台ノ西南方ハ御殿山ノ高地ニ遮キラレ約百四十度ノ欠視界ヲ生スルヲ以テ仮令砲台外測遠機ノ観測ニ籍ルモ此方面ニ対シテ有効ナル射撃ヲ行フ能ハサルノ不利アリ以上二個ノ弊害ハ此地点ニ於テハ如何ニ巧妙ナル設計ヲ施スモ到底十分ニ之ヲ医スルノ道ナキモノト認定セリ反之御殿山ハ函館ノ最高峰ニシテ其南方ノミ千畳敷ノ高地ニ遮キラレ多少欠視界ヲ生スルモ東北西ノ三面ニ対シテハ展望自在ニシテ之ヲ薬師山ニ比スレハ其欠視界ニ属スル西南方ニ対シ優ニ有効ノ射撃ヲ行ヒ得ルノ利益アリトス但御殿山頂ハ地積狭窄ナルカ故ニ薬師山既完兵備ヲ挙テ悉ク之ヲ此地点ニ移サンニハ著大ノ除土ヲ要スルヲ以テ主砲タル榴弾砲四門ヲ割キテ茲ニ移シ他ノ兵備ハ之ヲ薬師山ニ残置シ附属砲台ノ編成トナスヲ得策トス然ルニ御殿山ノ地点タル元ト総司令所ニ充テラレ居ルヲ以テ上陳ノ言ウ榴弾砲ヲ茲ニ移ス件ハ為メニ堡塁団長ノ占位スヘキ司令所ヲ欠クニ至ルヘシトノ非難ヲ生起スヘシト雖モ元来総司令所ニ要スヘキ地積ハ観測若クハ通信器具ノ様式幅員ニ関スルモノニシテ目下研究中ニ属スル此等器具ヲ以テ考究スル件ハ総司令所ノ為メ御殿山ノ全部ヲ占領スルノ必要ナカルヘキヲ以テ断然茲ニ榴弾砲ノ全数ヲ配備シ観測所二個ヲ構設シ一ハ之ヲ堡塁団長ノ占用ニ供スルヲ以テ得策ナリト認定セリ
ということになり、御殿山第一砲台を築城することが決まった。
1898(明治31)年6月 御殿山第一砲台の起工。
1898(明治31)年7月27日 勅令第百七十六号として「要塞近傍ニ於ケル水陸測量等ノ取締ニ関スル件」が公布。
1898(明治31)年9月28日 陸軍省告示第十一号により函館要塞周辺区域が明示された。
1899(明治32)年7月14日 法律第百五号として「要塞地帯法」が公布。
1899(明治32)年8月11日 陸海軍省告示により函館要塞地帯が明示された。
1900(明治33)年4月 函館要塞司令部開庁。
1900(明治33)年10月 御殿山第一砲台の竣工。
1901(明治34)年11月 御殿山第一砲台に、28cm榴弾砲4門据え付け完了。
1903(明治36)年12月31日 陸軍大臣より函館要塞射撃準備の内達。
1904(明治37)年1月17日 御殿山第一・第二砲台、千畳敷砲台の射撃準備完了。
1904(明治37)年2月4日 御前会議でロシアとの国交断絶・開戦が決定。
1904(明治37)年2月5日 函館要塞・対馬要塞・佐世保要塞・長崎要塞・澎湖島要塞に動員下令。
東京湾要塞・由良要塞・広島湾要塞・舞鶴要塞・下関要塞・基隆要塞に警急配備下令。
1904(明治37)年2月9日 日露戦争勃発。
1904(明治37)年2月12日 函館戦時指揮官に函館要塞司令官秋元盛之大佐が任命された。
1904(明治37)年2月13日 ロシアのウラジオストック艦隊が津軽海峡西口付近に現れ、日本の商船名古浦丸を撃沈。
1904(明治37)年2月14日 函館要塞の本戦備完了。
勅令第三十六〜三十九号をもって、長崎要塞地帯、佐世保要塞地帯、対馬及びその沿海、函館要塞地帯が「臨戦地境」と定められ「戒厳ヲ行フコトヲ宣告」された。
1904(明治37)年7月 ウラジオストック艦隊が、20日に津軽海峡を東に抜け、30日に西に抜けた。
同艦隊は函館要塞に近づかなかったため戦闘は無し。要塞があると敵艦が近づかない戦闘抑止力が証明され、函館は無事だったが、敵艦の津軽海峡通過によって、一時青函航路が麻痺し北海道が孤立した。
(ウラジオストック艦隊はその後8月14日の蔚山沖海戦で壊滅)
 ウラジオストック艦隊による津軽海峡通過を許したために、戦後函館要塞は役に立たなかったという誤った評価がなされてしまっている。
 確かに青函航路の麻痺については批判されても仕方がないが、要塞の最大の目的である「敵軍ヲシテ本湾ヲ利用セシメサル事」(明治31年「函館要塞防禦計画書」)については、十分にその機能を果たしている。
 ウラジオストック艦隊については対要塞戦に勝利するような強力な艦隊ではなかったことが今日までに明らかになっているので、もし同艦隊が函館に接近していれば、要塞からの射撃で壊滅したであろうことは容易に理解できる。
 当時函館が要塞化されていたことは当然ロシアも知っていたので、ウラジオストック艦隊は要塞地帯への接近を恐れていたことが想像される。
 函館要塞、東京湾要塞ともに要塞地帯内への敵艦侵入・艦砲射撃を防いだ点は大きく評価されるべきであろう。
1914(大正3)年12月26日 次官より函館要塞司令官に、御殿山第一砲台の備砲を、陸軍兵器本廠へ至急返納するよう電報。
1915(大正4)年4月1日 廃止予定の御殿山第一砲台は既に備砲は撤去されているが、同砲台に使用されている石材は最も良質のものなので存置の決まった砲台の修繕材料に使用したい旨、函館要塞司令官岩倉久米雄より陸軍大臣岡布之助へ申請。
1916(大正5)年10月 御殿山第一砲台と薬師山砲台の廃止が決定。
1927(昭和 2)年4月1日 「函館要塞司令部」が「津軽要塞司令部」と改称。陸海軍告示第二号によって「函館要塞地帯」は「津軽要塞地帯」と改められた。
太平洋戦争中  この頃には、大間崎砲台と汐首岬砲台による津軽海峡東口封鎖、白神岬砲台と竜飛崎砲台による同海峡西口封鎖が完成していた。
 そのため、函館山には演習用や緊急時対策に残した御殿山第ニ砲台の28cm榴弾砲4門と、千畳敷砲台の同砲2門、潜水艦対策に立待岬に据え付けられた45式15cmカノン砲1門以外に備砲はなかった。
1946(昭和21)年5月 函館山の一般開放。
1953(昭和28)年 失業対策事業により函館山山頂までの道路が開通。
1954(昭和29)年 旧展望台の完成。
1958(昭和33)年 ロープウェイの開業。
1988(昭和63)年 新型ロープウェイ、新展望台の竣工。
2001(平成13)年10月 「函館山と砲台跡」が北海道遺産に選定。
 (上) 戦後(1954年7月)撮影の南西側の砲座と観測所跡 出典:北海道新聞2003年3月14日朝刊36面
 この写真は函館の郷土史家である中村正勝さんが入手したもの。楕円形に近い砲座の形がよくわかる貴重な写真である。
 この砲座の上にはテレビ局の送信施設が建っているのだが、2棟の建物の隙間に一部が露出しているため、現在でも部分的に形状が確認できる。
 ※戦後間もない頃の函館山山頂(御殿山第一砲台跡)の写真をお持ちの方は、情報提供をお願いいたします。
 (上) 現在の函館山山頂
 写真左手にHBCとNHKの送信施設が見えるが、その二棟の隙間に砲座の一部を確認することができる。
 写真中央のタクシー(白色)のやや左くらいの地下に、地下通路入口が残る。黒色の車を含めその左側一帯の駐車場の地下に、掩蔽部が残る。
(左) テレビ局の建物の隙間に残る砲座跡
 (上) 御殿山第一砲台跡に旧展望台を建設中の写真(1953〜54年頃)
 (人づてにいただいた写真ですので引用はご遠慮ください) この写真より古い写真をお持ちの方は情報提供願います。
 (上) ロープウェイ山頂駅と砲台の出入口
 軍道を登りきると、ここへ到着。矢印の位置が砲台の本来の出入口。
 ここより先の砲台内は、まだ一般公開されていない区域ですので、研究者以外は立ち入らないでください。
 (上) 砲台出入口の内部
(左) 北西側の観測所へ向かう階段
 ロープウェイの設備が建てられたため、数段を残し消滅。
 (上) 地下通路の出入口
 正面の地下通路を進むと、右側に巨大な掩蔽部(兵舎)が残る。右側の地下通路(現在は塞がれている)を進むと、地下掩蔽部(砲側庫)及び砲座へ到達する。
 この地下通路出入口前の空間自体が、駐車場の下となっているため、実際は真っ暗であり、懐中電灯は必需品である。