あかね色の空


 序章
父を乗せた列車は、折からの朝の光で茜色に 染まった遠い空の彼方へ、ゆっくりと滑り出した。
それが、私が父を見た最後だった。

辺りは白いもやに包まれていた。
夜明け前の八幡神社の境内は、ひんやりと鎮まりかえっていた。
父と母と私の砂利道を踏む音だけが聞こえ
て、尚いっそう息の詰まりそうな緊張で震えたのを覚えている。
何が起こったのか、私にはよくわからなかった。
母は生まれてまだ半年しか経っていない弟の
紀雄を背負っていた。
父は、軍服を着ていた。軍帽もかぶっていた。刀も下げていた。
三人は神前に進み、柏手を打った。
訳の分からないまま、何か重大な事が押し寄せて来そうな予感に押しつぶされそうだった。
三人が無言のまま来た砂利道を引き返そうとした時、突然父が立ち止まった。同時に母も立ち止まった。
少し前を歩いていた私も足を止めた。
父と母は向き合っていた。
暫くして、「じゃ、行って来るからね。」
「、、、、、。」
母の声は聞こえなかった。
少し離れて、私はじっと見ていた。
父と母が声もなくただ向かい合っているのを。語り合っているのを。
私は走り寄ろうとした。
でも、そこへは一歩も近付けなかった。
近付いてはいけないような気がした。
それは、父と母だけの厳粛な儀式のように感じられたのだった。

駅に着いた時もまだ薄暗かった。日の丸の旗を持った小母さん達が、隣組の出征する人や
知人を、また、父をも見送る為に、大勢、プラットホームに詰めかけていた。
列車に乗り込んだ父は、窓から顔を出して、
私を見て笑った。そして、母の背中の赤ん坊の頭を、くるくると巻いた日の丸の旗の先で
こんこんと叩き、「のりおちゃん、のりおちゃん。」と、歌うように云った。

発車の合図とともに見送りの人たちは、
「万歳、ばんざーい。」と叫んだ。
確実に父は遠くへ行ってしまうのだという悲しみが、私を襲った。
「何で万歳なの?」「何が万歳なもんか。」
尚いっそうの悲憤を押し殺して声も出さず私は泣いた。

小学四年生の冬休みに起こったこの出来事は今も時々思い出されて、忘れようとしても忘れられない
新たな怒りと無念を伴って蘇ってしまうのである。

父と母への鎮魂歌は、ある意味、自分自身への鎮魂歌かもしれない。

 

 

    茜色の空  父と母に捧ぐ
「一」
「母ちゃんに敬礼!」
と、小学校に入学する事になっている末っ子ののりおが突然立ち上がって 母の方を向いて手をかざし
敬礼のまねをしたので、皆一斉に母の顔を見た。
そのとたん母はウッと云って前掛けを顔に当てた。
「おおきに。のりおちゃん。みんなもね。」
と、一人一人の顔を見て行った。
昭和23年の春休み、兄弟6人の進級祝いと、
母の教員資格取得のささやかな親子の祝いの
最中の事である。
わたし長女中学3年、督長男中学1年、次男
釈一は小学5年、その下の次女千左4年生。
5番目の弟で三男の紘一2年生だった。
「みんな変わったなあ。」私は溢れそうになる涙が落ちないように天井を見上げた。
鴨居には父の写真がいつものように私たちを
慈愛の目で見ていた。
「父ちゃんて云えば何ちゅうてん馬になって
くれやって、みんなを背中に乗せて家中をひひん、ひひーん云いながら遊んでくりゃった
こつが一番面白りかったあ。」ととくいちが云うと、みな一度に「うーん、最高じゃったあ。」と、
顔を輝かせて皆一様に父を懐かしんだ。
「ばーか。のりおが知っちょるもんか。」と
こういちに云われて父を知らない末っ子はふと言葉に詰まったが、「僕かあ知っちょるよ
父ちゃんの事あ、ぜーんぶ覚えちょるよ。」
と、口を尖らして泣き出すように抗議した。
「うん、父ちゃんにだっこされて写真撮ったもんね。」と、長男が助け舟を出すように優しく云ったので、
言い出したこういちを始め皆ほっと安堵した。
同時にまたしてもみんなは一様に在りし日の父の姿を求め懐かしんだ。


  [二」
父が出征する半年前の昭和18年に6番目の子供が生まれた。小さい私たちは、戦争というものがどんなに
恐ろしいものか等知らなかったし、子供達は元気だった。
出征する前の父は教職にあったが、いつも元気で、機嫌が良くて、何と云っても特別に優しい人だった。
母はその当時、寝たり起きたり、病気がちで、その頃の私の記憶では、母と云う人はいつも静かに横になっている人だった。
5人目のこういちを生んだ後、産後の日だちが悪くてもう子供を生んだら危ないと医者に
云われていたけれど、又6人目を生んだので
体が弱くなりなさったのよと、聞きもしないのに女中のまきちゃんが教えてくれた。
そんな母が、半年もかかって私のセーターを編んでくれた時は嬉しくなってまきちゃんに
自慢して着て見せたのを覚えている。
子供が6人も居て、若い女中だけでは間に合わなかったのだろう。小母さんも居た。
その、お仲おばさんは朝早くから鼻歌を歌いながらよく働く人だった。

父が帰宅するとワアッと子供達は玄関に走り
我先に父に触ったりすがったりして、「馬、
馬をして。」とせがんだ。
父が上着を脱いで四つん這いになるや否や、
子供達はきゃっきゃっと騒ぎながら背中にまたがった。まさに、子亀の背中にまた子亀が
乗ってという図である。
一度に4人の子供が乗っかるのだから、最初の子は首に跨がっている。
父は、ひひんひひーんと云いながら座敷中を駆け回った。いや、這い回った。
時々わざとお尻を振ったりして、そこにつかまっている子が振り落とされて、その度に子供達は大喜びしてはしゃいだ。
「もういいじゃろ。みんな、もうお仕舞い。」
と母の一声があると、満足した子供達は父の背中から下りるのだった。
我が家の風呂も特別な行事だったかもと今にして思う。
「ただしちゃーん、とくいっちゃーん、こいっちゃーん。」と呼び、順に体を洗ってやりながら、
話をしたり聞いたりして、最後に
3人を一列に並べ成長の具合を見るかのように、「気を付けーっ。」と云う。
「はい、後ろを向けーっ。」
「よしよし。今日もおりこさんじゃった。」
「はーい、次みえちゃんとちさちゃーん。」
と声をかけ、同じ事をして「よしよし。」と云い、「はーい、最後はかあちゃーん。」
と、母を呼んだ。


 「三」
その頃私たちは宮崎市内に住んでいたが、父が出征した後親戚の助言もあり、母の故郷の木城に引き上げる事になった。
おなかおばさんとまきちゃんともさよならして、父の思い出がいっぱい詰まっているうちを後にした。
引き揚げるとき寂しげな顔をした母も,木城に帰ってみると、そこはそこで、まだ子供が生まれる前の
新婚時代を過ごした家だし、ようやく安堵したようだった。
引っ越しが一段落し手伝いの人たちが帰ると、みんな黙って母を取り巻いた。
よちよち歩きののりおは母の膝で眠っている。
[今日からここで父ちゃんが帰って来なさる迄待っていようね。」
母は自分に言い聞かせるように云った。
翌朝目を覚ますと母は前掛けをしてかまどに火をつけていた。
[母ちゃん、体はいいと?」
「うーん、元気出さんと兵隊さん達に申し訳がねえがね。」
宮崎に居た頃はこんな母を見た事がなかった。
黙って母の後に突っ立っている私に、
「早よ顔洗うて飯台に皆の茶碗を並べなさい。」と云って、父の陰膳の御飯を盛りながら、
「父ちゃんは今頃どうしちょりゃるじゃろかねえ。」
それには答えず私は聞いた。
「いつになったら帰って来なさるじゃろか?」
今度は母が答えなかった。

「さあさあ、みんなを起こして来なさい。」
我に帰ったように私に命じた。
「みんなー、起きなさーい。」
私は大声で怒鳴った。
「ぷ〜っ」
誰かがおならをしたので、子供達はわあ〜っと笑った。「父ちゃんの起床ラッパにゃかなわんねー。」
「父ちゃんの起床ラッパが聞きたいよねえ。」と、誰云うとも無く云う。
ひょうきんな父は、起きる頃になると床の中で威勢のいい大きなおならをして、「ほらー
起床ラッパだぞー。」と、ぷぷぷぷぷ、ぷぷぷぷぷっぷぷ。ぷぷぷぷぷ、ぷぷぷぷぷっぷと聞き慣れた節を、
まるでラッパのように屁を調節して皆を笑わせ喜ばせた。
「兄ちゃんのもだんだん父ちゃんに似て来たよ。」と直ぐ下の弟とくいちが言い終わらないうちに、
「じゃろがー。」と、ただしはいきなり布団をはぎ取り、とくいちの上に乗っかった。始めはいつものふざけっこ。
そのうち、いつの間にか本気の喧嘩になってしまう。
この二人は、まことによく喧嘩を楽しんだ。
そう、ふざけ合いから本当の喧嘩になってしまい、姉である私も怖くて止められなかった。
有り余るエネルギーの発散みたいなものだったのだろうが、母はそれが分かっていても、
やはり本気で嘆くのだった。
[早うせんと、学校に遅れるよ〜っ。」
私の一声に、喧嘩もけろっと放り出して、皆一斉に寝床から飛び出し、我先に顔を洗い、
ばたばたと奥の間に走って行って、神棚に向かってパチパチとやり、食卓に走る。
すると、誰かが居ない。どうも人数が足りないように思える。
「誰がおらんとねー。」と、母。
「それーっ、号令だ。俺から、一っ。」と長男。「二いっ。」[三」
「あ、こいっちゃんがおらん。」と、気付く。
「こういちっ、お前一人の為に皆が遅刻すっとどー。」とただしが怒鳴るけど、洗面所も便所の使用も、
力の強い順になってしまうので、下の者はどうしても後になってしまう。
「まだまだ時間があるがね。早う食べて行きなさい。」の母の声に促されて、
「いただきまあす。」と、ぱくつき始めたかと思うと直ぐに「おかわりっ。」と茶碗を差し出すので
私と母は食べている暇がない。
「ほら、お弁当忘れないようにね。」
「うん。」「うん。」
といいながら、皆は自分の目印のついた弁当を包み、鞄に入れるや、行って来ますの挨拶もそこそこに飛び出て行く。
私も弟妹達の後を追う。

家の中は急に八重子とのりおだけになった。
「僕も早よ学校に行きたいなあ。」
「来年の次の次かな?」
「僕が一年生になったら父ちゃんは帰って来やる?」
「帰って来やるといいねえ。」
出征兵士の留守宅で大っぴらに夫の帰還を口にするのはタブーであったが、
八重子は幼い末っ子に向かって口に出さずにいられなかった。
そして、只ひたすらに、夫の無事を祈るのみであった。


 「四」
私が生まれた頃の父は、畑にいろいろな花とか野菜を作る事が一番の趣味で、余暇を本職みたいに楽しんでいた。
多趣味な人だったと思う。
写真も、暗室を作り熱心だった。何かと云うとすぐに写真を撮りたがった。
何故か写真嫌いの私は、物心ついた頃から、自分が撮られる事がいやで、
親戚などが集まる集合写真の時も部屋の隅に隠れていて、皆が呼ぶので仕方なく端っこに立った。
そんな風だったけれど、父が嬉しそうに暗室から出てくるのは好きだった。
三人目の弟が生まれる頃迄の木城の暮らしは
穏やかで、幸せいっぱいの毎日だったように思う。
四人目の妹ちさは、高鍋で生まれた。
その頃から、県内を父の転勤に伴って転校した。
そして、父が出征する日迄暮らしていた宮崎を後にする時は、兄弟姉妹は六人になっていたのである。

木城へ引き揚げてからの母には、急に重い荷物がのしかかって来た。
親戚のおじさんも、隣の小父さんも、みんな、戦争に取られていた。頼りになる人たちは殆ど戦争に駆り出されていた。
母の八重子は、育ち盛りの子供達に、少しでも足しになればと、出来るだけの作物を作ろうと懸命だった。
戦争の不安が高鳴る中で、食料の不足も大変な心配事だった。
鶏も飼う事にした。
家族の人数に合わせて,七羽飼おうよと子供達が提案した。一日1個ずつ卵を産んでくれたら、
家族中の者が毎日卵を食べられると、子供達はもうその気になっている。
牛乳の代わりに山羊の乳なら家でも飲めるからと、山羊も飼う事にした。
それに、近所の人に勧められて豚も飼ってしまった。
もう、その頃から子供達は自分を一人前の男か女のように思ったりした。
実際は少し前の喧嘩したり遊びほうける子供とちっとも変わらなかったのだが。

私は時々授業中に母ちゃんは大丈夫かなと心配した。
今迄の母は、横になっている方が多く、気分のいい時に起きて、
きちんと着物を着て花を生けたり裁縫をしたりという姿しか覚えていない私にとって、絣のもんぺをはき、
手拭いを被って鍬を持つ母が同じ人だとは嘘のようだった。しかも母は、朝から晩迄働き回った。
「母ちゃん、また悪うなったらいかんから、
ちょっと休んで。」と頼むと、
「こうして働いちょると、父ちゃんが居なさらんのも忘れておらるるがね。」と、取り合わなかった。
昭和20年8月15日。
母は仕事をやめて家の中に入った。
そして、子供達を呼んだ。
「戦争が終わったからね。父ちゃんが帰って来なさるよ。」
と、噛み締めるように云った。
その声は、今思い出しても、何故か冷静だった。
日本はどんな事があっても負けないと教育されていた私には、敗戦と云う言葉はあまりにも衝撃的だった。
「何で、カミカゼが吹かんかったつと?」
本気に信じていたのだった。
母は黙って優しく私の頭を撫でた。

  「五」
その日を境に母は明るくなった。
元気が見られた。若やいだようにも見えた。
そんな母を見ると、本当に近いうちに父に会えるという思いで嬉しくてたまらなかった。
家族の皆が浮き浮きしていた。
待つのがもどかしく、子供達は座敷を跳ね回った。「父ちゃんはまだ?」
「いつ、帰って来やると?」
「あした?」「あさって?」
母にまとわりついて質問攻めにする。
毎日同じ事を聞いている。
「鶏もあと一羽増やさんとねえ。」
ちさが、細かく気を使っている。
「山羊の乳搾りも出来るごつなったし、豚も
そろそろ売っていいごつなったし、よし、いつ父ちゃんが帰って来やってんいいど。」
長男が皆を見回した。
皆はこの頃少しは母を手伝うようになって来ていたので、きっと、父に褒めてもらえると思うと、わくわくするのだった。

戦後の食糧難はどこの家庭でも同じであったが、八重子は、子供達にひもじい思いだけはさせたくないようにと、
米や野菜を売ってくれそうな家に、箪笥から選んだ着物を持って、長女の私を連れて買い出しに出かけた。
しょっちゅう、しょっちゅうだった。
家にはお金も無かったのだろうが、農家の人たちは、お金では何も売ってくれず、
「お宅ならいい着物がありなさるじゃろ?
それとなら取り替えてもよござんすが。」
と、云われるのだった。
それでも食べる物は足りなかった。
御飯の中にサツマイモを入れて食べるのは
上等で、サツマイモの中にご飯粒が混じっていると云う主食だった。それもまだましで、
澱粉粉を固めてきな粉をつけて食べたり、
かぼちゃばかりの日が続いて、手のひらが黄色くなったりした。
色々な、食べられる物は何でも工夫して、少しでも美味しく食べさせようと、母は懸命だった。必死だったと云ってよい。
一日中、食べる事の為に動き回る母を見ているから、子供達は誰一人不平を言わなかった。
今思い出しても、どんな代用食でも美味しかった。愛情いっぱいの食事だった。

母の箪笥の着物は、どんどん残り少なくなっていたが、そのそばに古ぼけた箪笥が置いてあって、一番下に、
まだ摺ってない籾が詰まっていた。
母が何も言わないので、その事には触れずにいたが、今夜は何を食べたらいいのだろうと
思いめぐらせていた私は、とうとう母に聞いた。
「あの籾はどうすっと?」
「だめ!」
一瞬きっとなった八重子は、直ぐなだめるように、云った。
「あれは、祖父ちゃんがね、父ちゃんが帰って来なさった時に食べるんじゃから、手をつけんように。と、
云いなさってね。父ちゃんが帰って来なさった時に皆で食べようや。ね。」
母は噛んで含めるように云った。
「早よ、帰って来なさるといいのにねえ。」と云う私に「も、いっときの辛抱よ。」

その頃ラジオでは、毎日何処の港にどの方面からの帰還船が着いたという報道が繰り返された。
母はもちろん、小さい弟まで、ラジオのニュースを聞き漏らすまいと、熱心に耳を
そばだてていた。そして、今日も家の父ちゃんの事ではなかったと、皆一様に、「ふう」と、ため息をついた。
「家の父ちゃんはいつ帰りゃるとじゃろか」と云う長男の問いかけに、母は黙ったまま
遠くを見ていた。
終戦の放送から半年が経っていた。

父の消息ははっきりしなかったが、近所の出征した人もまだ帰って来なかったし、私も弟妹達も父の帰りを信じていた。
そんなある日、母は子供達に云った。
「宮崎に行って来るからね。みんな、よーく
留守番しておってね。」
末っ子の手を引きながら、「もし、今夜父ちゃんが帰って来でもしなさったら、この着物と下着を着てもらってね。」
と、新しく縫った着物と下着を大切そうに置いた。
「うん。」と返事をした私は、母も、どれほど父の帰りを待ち焦がれているのかを、痛いほど感じたのだった。

 翌日、帰って来た母を皆我先に取り囲んだ。
「詳しい事は分からんかったわ。じゃけど、遠い遠い国からたくさんの人が帰って来なさるのじゃから、
分からんのも無理ないよ。そうじゃろ?ねえ。」
あとは、自分に言い聞かせるように、ゆっくりと云った。

「帰って来やらんかったらどんげすっと?」
と、突然長男が聞いた。
皆、しーんとなった。
12の瞳がじっと母の顔を見ている。
「帰って来やるかもしれんし、帰って来なさらんかも知れんとよ。」
妹がわ〜っと泣き出した。
弟達は、歯を食いしばっていた。

その時八重子は静かに話し始めた。
「うちの父ちゃんはね、陸軍予備将校じゃったからね、いつ、召集令状いうもんが来るかわからんし、
日本がいざと云う時には、いつでも戦地に行かなけりゃならんし、戦地に行ったらもう、生きて帰る事なんぞ望まれんとよ。
令状が来た時、もう、そん時覚悟せにゃならんかった。母ちゃんは一度は覚悟した。戦地に行きなさる日の朝、
今生の別れになるかも知れんと思うた。」
母は大きく息をした。
「じゃけど、終戦と云う事になった。父ちゃんが帰って来なさると思うてしもた、、、」
子供達の、あまりの落胆ぶりに気を取り直した母は、自分にも言い聞かせるように云った。
「戦地に行きなさった人たちもどんどん帰って来なさるし、うちの父ちゃんも帰って来なさるよ。
みんなも、そう思うじゃろ? じゃから、気を落としたらいかんがね。」

また、いつの間にか父が帰って来るという
希望の方へ、皆の気持ちは向かった。

「あー臭せー」「臭いよー。」「わー」と、
ぷーという大きな音に大笑いしながら子供たちは四方に散った。
残った母は、「犯人は誰ねーっ。」と、泣き笑いの声で叱った。

それからひと月位して,近所のお兄さんの戦死の知らせが伝わった。しかも、フィリピン
に行っていたと云う。私たちの不安は募るばかりだった。
その間にも八重子は手がかりとなる情報を夢中で集め歩いていた。
母の後ろ姿にも疲れが見えるようになった。
口数も少なくなった。

「母ちゃん、今度仲間に入れたにわとりが卵を生んじょるよ。はじめて生んだあ。」
末っ子が「父ちゃんの卵だー。」
「母ちゃん、早よ来てごらんよ。」
ちさとのりおが、鶏小屋に入って母を呼んでいる。
「ちさちゃんのお手柄じゃねえ。」
八重子はちさを見て微笑んだ。
ちさものりおも、久しぶりに優しく微笑んだ母を見て、心底喜んでいる。
「ほら、母ちゃん菜種の花も咲いちょるよー。」
と、私の指差す方を見て、「まこっちゃあ」と、夢から覚めたように菜の花を見た。
2月生まれの八重子は、特に梅の花が好きなのに、その年は、つぼみが膨らむのも、満開になったのも気がつかなかったのだろうか。
 菜の花や若葉の匂いが入り交じって、迫り来る夕闇は尚いっそう私を不安の底に追いやった。


「六」
「兄ちゃん達はどこ行った?」
「また、アユ釣りに行ったよ。」
「まあ、あーんげ、行ったらいかんと云うちょったつにねー。」
母は心配と怒りを一緒にした声で言った。
6月には解禁になるのを、近所のきかん坊達が、それを承知で、食べもしない鮎の稚児を
釣りに出かけるのである。
見つかったら大変な事になるので、きかん坊達は、背丈迄ある菜の花畑を、腰を屈めながら、夕闇に乗じて小丸川に向かうのだ。
悪がき達は、禁じられた遊びの虜になって、
それぞれの親にこっぴどく叱られながらも、
毎年、くり返すのだった。
「もう、今日と云う今日は承知せんから!」
と、八重子はそばに居る私に当たり散らした。「もう、御飯も食べさせん!」と、すごい剣幕である。
それでも、弟二人がこっそり帰って来ると、
安心の方が先に立ち、「早よ、足洗うて家に入りなさい。」と、御飯をつぎながら、
「そんげ悪りこつばっかりして、父ちゃんに云わにゃならん。」
母は茶碗を持ったまま力なく云った。
伏せた目から涙がこぼれ、あごを伝わって
ポタポタと飯台に落ちた。

あー、どうして父は帰ってくれないのだろう。父ちゃん早く帰って来てよーと,私は
心の中で叫んだ。


 [七」
田植えも終わり、から芋植え付けも片着いた頃、母はまた出かける支度をした。
「フィリピンから帰んなさった人が居らるると云うから話を聞きに行って来るからね。」
母の顔には決心みたいなものがあった。
「わたしも行く。」
じゃ、おいで。」
隣村迄、歩いてかなりあった。
夕暮れの田んぼ道は蛍が飛び交い、蛙が間断なく合唱している。
誘蛾灯はひっそりとあぜ道を照らし、根付いた稲の苗は整然と並んでいた。
あぜ道から道路に出て、生け垣から灯りのもれている家の前迄来ると母は立ち止まり、門柱に「綾部」と書いてあるのを確かめると、
「さ、行こ。」と、私を促した。
あらかじめ話がしてあったらしく、綾部氏は
「さ、さ、どうぞ。」と、奥に招じ入れて下さり、
「お嬢さんも一緒に来なさったかあ。」
いたわるように云われた。
冷たいものを出しながら、
「ま、私は無事に帰って来れましてのう。」
と、すまなそうに切り出された。
「ご無事で何よりでございました。本当に、
長い間ご苦労さまでした。」
母は、畳に額をつけて、しばらくの間頭を上げなかった。
「いやあ、私はこうして帰って来られました。その事だけで、もう、充分ですが、八重子さんは、
あっちこっちと聞き回っていなさるとか。本当に一日も早う手がかりがつかめん事にゃのう。」
「はい。主人と同じフィリピンに行ってなさった稲口さんの息子さんが戦死なさったと聞きました時はショックを受けました。
その後、宮崎にも二度ほど行ってみましたが、はっきりしませず、つい先日なんか、
笑うて下さいますな、よう当たると云う評判の占い師の所迄行ってみました。」
「いやあ、笑いますもんか。ようく気持ちは分かります。して、何て云われました?」
「はい。生きていると云う言葉を云うて下さらんかったとです。」
肩を落としてうなだれる母に、綾部氏は言葉も無く頷かれ、しばらく沈黙が続いた。
「弟の秀太さんがラバウルから帰んなさったとか?」
「そ、そうなんですよ。それで主人の弟も懸命に消息を聞き回ってくれまして、東京の援護局とかで
ようやく手がかりをつかんだんです。それによりますと、主人の部下だったと云う人の名前が数人わかりまして、
その方達は無事帰ってみえたと云う事ですし、住所も全部わかりましたので、全部の方に手紙を出しまして、
返事を待っているところでございますが、綾部さんのお帰りを知りまして、まだ、
落ち着きなさりませんのに申し訳ないと思ったのですが、こうしてお邪魔にあがりました。」
じっと、幾度も頷きながら聞いておられた
氏は、母が話し終わってもまだ腕を組んだまま黙って居られた。
「うーん。」
と、唸るように云ってまた沈黙された。
私の心臓は激しく鼓動し、それから先は云わないでーと、叫びそうになった。」
母は、というと、綾部氏の門の前で、「さ、
行こ。」と云った時と同じ顔になり、端座して氏の次の言葉を待っていた。
「私はフィリピンにあった二つの収容所を
知っていたが、俊顕さんの名前は無かったなあ。」
やっとの思いで、振り絞るように云われた綾部氏の声は暗く沈んでいたが、優しさといたわりに満ちていた。
母は静かに袂からハンケチを出し、目頭を押さえ、大きく頷いた。

来た時と同じ道を帰りながら、母は私の手を
ぎゅっと握った。
二人とも手を握ったまま無言で歩いた。
「来るときあんげ聞こえていた蛙の合唱が聞こえんね。かあちゃん。」
母は握っていた私の手を離し、その手で私の頭を優しく撫でた。
母を見上げると、何度も何度も頷いた。
何度も何度も、優しく頭を撫でた。


 「八」
稲も穂を出し始め,芋も時々掘って食べられるようになっていた。
諦めなければならない。そういう母の気持ちが子供たちにも伝わり、「とうちゃんは?」と、小さい子も聞かなくなった頃、
父の部下だった井上さんと云う人から手紙が来た。
終戦の年の1月頃から同じ部隊として行動を共にしていたという事だった。
母はその手紙を子供達の前で、声に出して読んだ。
<20年の1月、フィリピン沖で敵機に沈められ、その時は中隊長殿以下全員助かり陸に上がりました。その後、
陸の輸送隊となり6月18日迄行動を共にしました。6月18日には元気に指揮を執られていましたが、
それっきり帰隊なさいませんでしたので、おそらく敵中に戦死なされたものと信じられます。>
小さい子供たちには理解できなかった。
「母ちゃん何て書いちゃっと?」
「ねえ、ねえ。」と、せがんだ。
「父ちゃんは帰って来やらんげな。」
と、長男が泣き出しそうに云ったので、みんな、一度にわんわん泣き出した。
「まだ、父ちゃんが亡くなんなさったと決まったわけじゃないっちゃから、みんな、もう、泣きなさんな。ね。」
私はそれでもまだ望みを捨てきれず、弟妹達にそう云った。
子供たちは涙で汚れた顔のまま、ひと固まりになって黙って座っていた。
「ほら、今夜は新芋を蒸かしたよ。」
母がみんなの気持ちを引き立てるように声をかけた。
二人の弟も、さすがにその夜は喧嘩もせず、
ふざけっこも無しで、眠ってしまったが、私は母の事が気がかりでいつまでも眠れなかった。
母はいつものように、その夜も夜なべをしていた。
私はそっと起きて布団の上に座ったまま母を見ていた。
母は泣いてもいず、息ずかいも静かに針を運んでいた。

翌日はもう子供達はいつもと変らず、わいわいがやがやと大騒ぎをして学校に行った。
私も後を追った。
学校から帰った時、いつものように皆遊びに出て、家の中は母と私だけだった。
「誰か来なさったよ。」
と云った私の声に、母はハッとしたように立ち上がった。
村の役場の人が二人、玄関に立っている。
二人は母に何かを渡し、深々と頭を下げた。
「やはり、そうでしたか。」
落ち着いた声で母は云い、「お役目ご苦労様でした。」と、二人を帰した。

「見てごらん。」と、私に見せたその紙片には、
<昭和20年6月19日ルソン島サリナス方面に於いて戦死せられましたので謹んで御通知致します>
と、書かれてあった。

一瞬のうちに、父の姿が走馬灯のように浮かんでは消えた。
馬になって家の中を這い回って私たちを喜ばせてくれた父。起床ラッパの父。
みんなを風呂に入れてくれた父。
そして、八幡神社での事。寒い朝、茜色に染められた空の彼方に父を乗せた列車が消えて
行った日の事。
ああ、もう、父に会う事は出来ないのだと、
悲しみと絶望が胸を突き上げて来た。

母は、私の手を取り裏山にのぼった。
目の前には稲穂が波打ち、今年の収穫を約束していた。

 母は私の手を握ったまま空を見上げた。
「見てごらんよ。空を。」
空一面が夕焼けで赤銅色に染まっていた。
母は,一気に詠んだ。

<一とせ余待ちわびし君の知らせ手に見上ぐる空の 嚇々と燃ゆ>

 「九」
 父の広報が来たのは21年10月18日だった。
翌月,父の村葬が盛大に執り行われ、母親を中心に,最後は潔く父の死を諦められたのも、それは、終戦から1年3ヶ月の間、
父を待つ希望から一日一日、段々段々、じわじわじわじわと希望を失わせ、あきらめを植えつけられて行った、時の流れであったろうか。

母にとってはそれよりも、どうやって6人の子供を育てて行くかという事が、一番の重大事だった。
父と母が約束していた、6人を皆大学に出すというのはとても難しくなった。
それどころか、どうやって生計を立てて行ったらいいのか母は迷った。
親戚も心配してくれて、毎晩のように家に来てくれ、助言したり、田んぼや畑の仕事を手伝ってくれたが、
なかなか母に出来そうな案は出て来なかった。
母の体力や、子供たちの手を借りるくらいでは、農家としては、やっていけない。
宮崎の祖母が店を出したらと云う話を持って来たが、母はそれも断った。
近くで従兄弟が商売をしているので、そんなわけにはいかないと云うのだ。
もう一つの案があった。
心配してよく訪ねて来て下さる父の友人達が、やはり、教員が一番向くと云われるのである。
「私は女学校しか出てなくて、教員の免許を持ってませんが。」
「そりゃあ、勤務しながら取れますがね。」
他の友人が、「なあに、女学校で級長をして
いなさった八重子さんじゃ。やる気さえあれば資格なんぞ直ぐ取れるよ。」
「よし、決まったね。どこの学校へ行くかは
こっちに任せて下さい。」
父の友人達は、頼もしい限りであった。


[十」
 「まあ、梅の花がこんなにー。」
八重子ははじめて庭の梅の花に気付き外へ出た。
宵闇にも白く気高く咲き匂って、八重子は自分のさい先と重ね合わせ、何となく自信と勇気がわいてくるのだった。
家の中に入るや、子供達が取り囲む。
「母ちゃん、先生になっと?」
この頃次々とある来客の話に隣室で聞き耳を立てていたらしい。
「うん。なるよ。父ちゃんのように立派な先生にならんといかんから、みんなも母ちゃんに力を貸してね。」
「うん。わかった。」
子供たちは張り切っている。「そしたら今夜は家族会議じゃね。」
誰かが面白いことを言う。

「はい。家族会議を始めます。よーく聞いちょれよ。」
長男が威厳を持って口を切った。
母が、昼間に山羊の乳を入れて焼いた菓子パンをみんなの前にそっと置く。
小さい子もみんな真剣な顔をして長男の顔を見ている。
私は本当に驚いた。つい先頃まで母を嘆かせてばかりの長男と次男が、凛々しく頼もしい顔で座っているのだもの。
「もう、うちには父ちゃんはおりゃらん。
母ちゃんも新学期から先生になりゃる。
みんな、今迄んごつあ、いかんもんね。」
母も私も一緒になり長男の次の言葉を待った。
「今迄は山羊の世話も豚の世話もにわとりも
御飯食べるこつもみーんな母ちゃんにしてもろた。じゃけん、新学期からはどしたらいいか、皆で分担したらいいと思うが、
兄ちゃん一人で決めるよりも、それぞれの希望を聞いて決めたらいいと思う。一人ずつ云いたい事を云え。」
「はーい。」ちさが手を挙げた。
「わたしは鶏の世話をしまーす。」
「そっだけか?」
「はい、のりおちゃんを遊んであげます。」
「よし、ほんならいいね。朝晩二度えさをやるんだぞ。」「姉ちゃんは御飯の支度と家の中の片付けを受け持ちまーす。」
と,私が云った。
「はい、わかりました。めしの事は姉ちゃんじゃないとわからんもんね。」
長男はあっさりという。
「とくいちはどうすっと?」
「うん。山羊の世話をするよ。乳しぼりすっ
ときゃ、こういち、お前も手伝えよ。」
「はい。」
「ぼくは何すっと?」と、末っ子が聞く。
「のりおちゃんは乳しぼりすっ時、山羊の前足をつかまえとけ。」
 乳をしぼるとき、後ろ足は地面に打ち込んだ杭に縛り付けるが、前足はそのままなので、時たま動いたりして困るのである。
母は一人一人の顔をゆっくりと見回しながら
云った。
「この頃、みんな、えーれ、いい子になってくれたねえ。それにまあ、男の子たちは急に背が伸びたじゃねえね。
どれ、こういっちゃん、のりおちゃん、立って並んでみなさい。」 二人は無邪気に気をつけの姿勢をして並んでみせた。
「まあ、兄ちゃん達も並んでごらんよ。」
上の二人は照れながらその横に並んだ。
「んまあ。んだあ。」
母は、子供達が知らぬ間に大きくなっているのに感嘆した。そして、この一年半というもの、
全く子供達の背丈の事まで気がつかなかった自分に驚き、夫の安否が一番の重大事だった事を、心の中で子供達にそっと詫びるのだった。

「おっと、豚の世話はどんげするかねえ。あれ?おれの役目はまだじゃったね。おれは豚かあ。ぶーぶーぶー。」
と、長男が云ったので、 みんな大笑いした。
「まだその他に庭の掃除やら風呂水汲みやらもあるし、田んぼや畑はどんげしたらいいじゃろか。」と、そこ迄思いつくと、
もう長男はどうしたものかと大人が困ったような顔をしたので、八重子は笑い出したくなるのをこらえて、
「母ちゃんにも、ちっと仕事を分けてくれんね。」と、口を出した。

楽しい家族会議だった。
久々の一家団欒だった。
春は、すぐそこまで来ていた。


 「十一」
 八重子は、夫俊顕と出会うきっかけとなったミシンに向かうのは何年ぶりだろうと思い起こしながら、
初出勤の日に着るスーツを縫い始めた。
八重子が六つの時に未亡人となった祖母は、
実家の薦めに従い、一人っ子の八重子を置いて宮崎の乾物問屋に再婚したのだったが、残して来た娘の事を忘れる筈も無く、
八重子が女学校を卒業した時、女は自立できるようにしておかなければいかんよ。と、手に職を付ける事を薦めたと云う。
幼い一人娘を置いて、泣く泣く再婚しなければならなかった自分のようにはなってもらいたくなかったのだと思う。
東京のドレスメーカー学院にやり、当時、村に一台しか無かったと云うシンガーミシンを買ってくれたのも祖母だと聞いた。

少しばかりの技術を身につけて木城に帰った
八重子は、たまに人のものを引き受けている所へ父がシャツを頼みに来て、所謂、一目惚れをしたという親戚の人たちの話である。
二人は直ぐに結婚したのだった。

「わーい」「わーい」と、弟達が喜んでいる。野次にも思える「わーい」だったが、弟達は、母の変わり様に照れていた。
母が自分で仕立てたスーツは、細身の八重子をぴったりと包み、子供たちはそこに、まるでよその人を見るような気がしたのだった。

そうして、母も子供たちも、いよいよ新学期を迎えた。
父の友人のお骨折りで、地元の木城小学校に着任する事が出来た八重子が学校に着くと、母を見知っている近所の子供たちが、
あれ?という顔をしている。
八重子は面映さでいっぱいになりながら職員室に入って行った。
大半は顔見知りの先生達であり、古くから付き合いのある先生の顔もあって、八重子は、
何となくやって行けそうな自信が湧いてくるのだった。
こうして母は第二の人生を、しっかりと歩き始めたのである。
初日を終えて帰宅すると、食卓には、私の作った夕飯が並び、子供達がそろって母の帰りを待っていた。
ちょっと前までは、私が探して回らなければ帰って来なかった弟達も、ちゃんと行儀よく座っているので、
八重子は今日一日の緊張も疲れも吹き飛んでしまった。
「ただいまあ。」と云わず、「んまあ。」と、驚きの声が先に出た。
のりおが、するするとにじり寄って、母の膝の上に乗った。母は嬉しそうに両腕で抱いた。
「母ちゃん、風呂にも入れるよ。」と、こういちが云う。
「みんながリレーして水を運んだよ。ポンプ押しは、ず〜っと、とくいっちゃんがしてくれた。」と私は云った。
今みたいに、蛇口をまわすとお湯が出てくる時代では想像もつかない難儀なお風呂なのだ。
バケツに八分目になると風呂桶に運び、適当な水量になると風呂釜を炊く。
木城では都市ガスなんか知らない時代だし、
薪や木屑を燃やしての事だから、本当に一仕事だった。

飯台には山羊の乳を温めたものもあったので、家族会議で決めた事を、本気で一生懸命にやった子供たちに八重子の胸は熱くなった。
夕飯の間中、みんなは次々に母に報告する。
いつもの夕飯時より更に賑やかだった。
明日からは、弁当を7つ作らねばならない。
のりおはまだ学校に行ってないが、弁当を置いてやっておかなければと気付くと、親戚や近所の人に頼んでいるとはいえ、
親と兄姉の居ない所でお昼を食べる末っ子が愛おしくてならない八重子だった。
いつの間にかこういちとのりおはこっくりを
始めている。
「ほらー、こういっちゃん、のりおちゃん、がんばって目を開けなさい。母ちゃんとお風呂に入ってから寝なさい。」
三人がお風呂に入っている間、上の二人は布団の上で相撲を始めている。
また喧嘩にならなきゃいいがと、妹と私が案じていると、「次ぎの人入んなさーい。」の
母の声に、二人は廊下を走って行った。
私と妹が風呂から上がった時はもう四人の男の子達はすやすやと眠っていた。
母は、風呂に入ったからと云って、子供達と一緒に寝る事は無かった。
翌日の米とぎから始まって、朝の準備,昼の弁当の用意、それに、自分の授業の準備や勉強もあった。
私たちは母がいつ寝るのか知らなかった。
朝、私たちが起きるともう、弁当が七つ並んでいた。
「のりおちゃん、今日はチャアちゃんが学校へ連れて行ってやるね。」
妹のチサがのりおの手を引いて家を出る。
末っ子ののりおは、大きい兄ちゃん達が遊んでくれないので、いつもチャアちゃん、チャアちゃん。と、
チサの後を追って遊んでもらっていた。
チサもまたよくめんどうを見た。
学校では、教室の外でおとなしく授業が終わるのを待っていた。そして,お弁当の時間になると、
チサの机でチャアちゃんと一緒に食べるのがうれしかった。

遊びに夢中になっている子供たちも、辺りが薄暗くなると急に自分たちがしなければならない事を思い出し、
遊びに未練を残しながらも、慌てて家に帰って来る。
山羊が待っている。風呂水汲みをしなければならない。庭掃除に、鶏小屋。
それらの事を、母が帰ってくるまでにやってしまわなければと、子供なりに、決めた事は守ろうと思っていた。
一番最後に帰って来た長男が、「こういちっ山羊を引っ張って来ーい。」と押し付ける。
いつも、一番怒鳴りやすい下から二番目の弟こういちに命令した。
こういちは口を尖らせながらも、逆らうと腕力ではかなわないので、裏の畠の隅につないである山羊を引っ張って来る。
山羊をつないで乳搾りを始めたとたん、蚊攻めにあう。
「あーっ。痒い、痒ーいっ。チサ、蚊すべをしろーっ。」
二人の兄に叫ばれた妹が、枯れ草に火をつけ、その上から生の杉の葉や、生の草をかぶせると、青白い煙が立って、
蚊はたちまち逃げて行く。でも、乳搾りをしている兄弟も、前足に触っているのりおも煙にいぶられて目をしばたたせ、
涙を出しながら、それをこらえて乳搾りを終わらせるのだった。
「あ、庭はき忘れちょった。」
私は慌てて玄関から門の所までほうき目をつけておく。
豚もよし。鶏は暗くなる前にチサが見たからよし。と、これで今日の役目が終わったと子供たちは安堵し、母の帰りを待った。
明日は慌てなくてもいいように、早く遊びを切り上げて家に帰ろうと、兄弟の誰もが思うのであるが、また、遊びほうけては慌てるのだった。
それでも子供達は、母にだけはいい子でいたいと一生懸命だった。


 「十二」
 どの子も皆元気だった。
大した怪我も無く、すねたり、問題を起こす子も無く過ごせるのは、きっと、父が守ってくれていると思われた。
寝る時は、母を中心にして、八畳間に固まって寝た。誰もほかの部屋に寝るものは無く、
皆寄り添って寝た。
夜中、目を覚ますと、母は机に向かっていたり、アイロンをかけていたりした。
母子家庭の手に負える範囲に、田んぼや畠も残してあったので、母に日曜日は無かった。
男手の必要な時は人を雇ったが、草むしり程度は、いつも母と私がした。
「あと一年もすれば、ただしやとくいちが役に立ってくれるよ。」と、母は自分を励ますように云う。
日曜日の夜は、さすがに母も疲れを見せた。
すえっこが、母の後ろに回って肩を叩くと、
「あー気持ちいいよ。」と喜んだ。
上の子供達も順に「今度はおれ」「今度は私」と、母をいたわった。
「姉ちゃんもやるよ。」私も母に触りたかった。
母の肩は、固くて、ほんとうに薄かった。
私は母をつまんでいるうちに、母が可哀想でたまらなくなって来た。
「ちょっと、風呂を見て来るね。」
私は風呂場に走って行って顔を洗った。
洗っても洗っても泣けてくるのだった。
 戦争ちゅうもんが無かったら!
 戦争さえ起こらんかったら!
私はただひたすら戦争を憎んだ。

「お風呂ちょうどいいよー。」と、私が呼ぶと、裸になった弟が四人で走って来て風呂に飛び込んだ。
「母ちゃん今夜は早う寝ようや。」
「うん、そんげしよう。」
母を真ん中にして、七人が蚊帳の中に横に
なった。 母はうちわで左右に風を送ってくれた。


 「十三」 
九月になるのは早い。
八重子は、夏休み中に、私たちの普段着を縫ってくれたが、自分用のも縫っていた。
藤色のボウのあるブラウスと、黒いタイトスカートは、いっそう八重子を際立たせていた。私は心の中で母の美しさを自慢した。

新学期の門をくぐりながら母は、今夜の夕飯の事をてきぱきと私に指示した。
私は少しの間母の後ろ姿を見送っていた。
足をすっすっと伸ばし、あごをしゃんと上げて歩いている。
ちょっと前の母と大きく変わっていた。
そう、大きく変わったのは、八重子は、この春、とうとう資格を取ったのだった。

 春休みのある日に祝った我が家のささやかな催しが終わったある日の日曜日、突然のように母がみんなを前にして云った。
「今日は、こういっちゃんと二人で宮崎市内見物じゃからね。」
私には母の気持ちがすぐに理解できた。
大きい兄ちゃん達は、一番下の弟は可愛いかわいいで、何かとかまってやったし、上の姉には従順にならざるを得ないし、
妹は女だしというわけで、どうしても、力関係からこういちを呼びつけ、用事を言いつけやすかった。かといって,
遊びに行く時は少々足手まといになるので一緒に遊んでもらえなく、
一人取り残されるのだった。
母はこんな兄弟関係をしっかり見ていたのだった。
八重子にとっては、誰が一番、誰が二番と云う事は決してなかったのだ。

「いってらっしゃーい。」
「はい。観光バスに乗って来るよ。」
二人は手をつないで家を出た。
夕方帰って来た母の、晴れ晴れと、満足そうな顔に比べて、こういちは、照れくささだけでない、
何か判然としない様子でニコッとした。六人の中で特別扱いされるのも、嬉しくなかったに違いないと私は思った。
ともあれ、母は、みんなを一様に愛していた。

平穏だけでない、それどころか、時には母を嘆かせ、泣かせ、また喜ばせもした六人の子供達の成長だけが生き甲斐であった母は、
三十九歳で散った父の五十回忌を境に、張りつめた糸が少しずつ緩むように、少しずつ老い始め、八十四年の生涯を終えたのだった。

 


   あとがき
 父と母の思い出は、語り尽くせない。
その中で、朝焼けの茜色の空に消えて行った父と、母が父の戦死の公報を手にした日の
赤銅色の夕焼けは、忘れられない鮮烈な風景として瞼に焼き付いている。
父、私の子供にとっては祖父、祖父を全然知らない私の子供や弟妹達の子供、私にとっては甥や姪に、
おじいちゃんの事をほんの少しでも知ってもらいたくて、また、戦争がどれほど残酷なものか、
それを語らなければならないと云う気持ちの高揚が、こういう表現になったが、
これは、身内の為に書きとめたメモリーとでもいった方がいい。
 このメモリーは、わずか四年間の追想にすぎないが、今も鮮やかに蘇って、その思い出は私の宝となっている。
そしてそのあとの七人は、それぞれ、悲喜交々、波乱と挑戦の人生を突き進んで行くのである。  この項終わり