諸背景と55歳のインターネット



 当方は「岩崎家」と申します。過去、明治中頃(1890年頃)からの造酒屋であり米糀(こめこうじ)を扱っていたことから、屋号は「糀屋(現在屋号は使われておりません)」と申します。1944年造り酒屋をやめ、現在に至っております。
 1996年6月(55歳)より遅ればせながらインターネットに接続し1カ月程度で臨時ホームページを作成し、その後改版しながら現在に至っています。これに当たっているものは「岡野洋貴(おかのひろき)」と申します。1941年生まれ、1980年代の40代よりパソコンを使っておりますので、他の事業の傍らマニュアル片手に奮闘しながら少しづつ進めています。昭和の終わりまでは電気技術者生活でしたが、その後は酒店・音楽ホール・ギャラリー・インターネットで頭が回らず薄くばかりなって行きます。・・・1996年6月
 こんな記述から早いもので、もう9年になりました。・・・2004年12月


糀ホールの季刊誌(Cozy Break)第1号記事(1994年)
2002年、事情からこの季刊誌の発行は中止しております。この1号に書いたのが下記記事です。

 本紙の刊行にあたりまして一言ご挨拶申し上げます。既に、多くの皆様にホールその他をご利用いただきまして有難く存じております。お客様と当方の努力のもとに楽しみのある経営が出来ればと願っておりますが、何分にも素人経営と運営でございますので、この点は宜しくお願い申し上げます。

 当家は岩崎と申します。明治時代に始まり昭和10年代まで酒造りを致しておりましたが、その後は不動産賃貸の傍ら酒類小売を細々と営んでおりました。義祖母である岩崎トラが昭和53年に他界し、岩崎道之介および明子夫婦が家を継承致しましたが義父も昭和58年に他界したために入婿である私岡野が岩崎家のマネージメントを開始致しました。
 生活の基盤とするために当地に2つの賃貸共同住宅を建築致しましたが、この土地最後の開発に当りまして、生涯のお付き合いを約束した設計士の山口さんといろいろとお話致しました。共同住宅ばかり増え社会的なインフラストラクチュアとのバランスを益々欠くような社会への疑問、金と物ばかり追いかけるバブル経済への疑問、もやもやとした行政への不満、一方では行政ばかりに依存する社会への疑問、家族やその友人が音楽関係におりますがホール予約に苦労している実情などの話の結論として、当地最後のビルだけは共同住宅を止め「どのように世の中が変化しても不変な文化的な楽しみのあるビル」にすることを決め、まず1階は家業の「酒店」とし、最上階は「気軽な雰囲気で使える音楽ホール」を造ることとしました。ホールがあればレストランも欲しいということで地下も造ろう、2階には当方の事務所を置かなければなりませんが、残りを単なるテナント事務所として貸すのも残念と考えておりましたところ山口さんからギャラリーの話が出て、そのようにすることと致しました。このようにして酒、音楽ホール、レストラン、ギャラリーのような一つのコンセプトを持つビルのイメージが出来上がりました。当地には過去酒造りに必要な大小の蔵が建ち並んでおりましたので、ビル全体も日本的なクラシックなビルになるよう山口さんには苦労してもらいました。

 ホールやギャラリー名称には、当家の屋号が「糀屋」でありましたことから「糀」を入れました。偶然ですが英語の「COZY」ともマッチすることになり、かつ「COZY」は建築を決断したときに考えていた「気軽に使えるホール」の経営の基本理念にもマッチすることとなりました。

 ホールやギャラリーの経営や運営の基本として考えておりますことは、いかに廉価にそれらを提供できるかであります。このビルは利益を優先したものではありませんし、当面利益が出るとも考えておりませんが、永続できなければ何のお役にも立ちません。そのために節約すべき所は節約しなければなりません。ビルやホールの運営のために多くの費用をかけることも出来ません。この点から、ご利用いただく皆様方には、Do it yourselfの精神で、また最近のはやり言葉ですが「ビルやホールに優しい使い方」をお願いしたいと存じております。安心してご利用いただき、安心してお貸しできるようなお客様との関係を大切にして行ければ何よりと存じております。

 これから、本紙その他を通じて皆様と交流を持てることを楽しみにしております。また、お気軽な本紙への投稿をお願い申し上げます。
(こんなことでしたが地下は集会場となってしまいました)
当ビル(岩崎ビル)について

 「音楽・美術・食事・酒で一つのサブシステムとなれば楽しくなりそう!」と考えながら、当ビルを企画・建築致しました。私自身どれにも自身はないのですが。
    ビル所有 (株)アドバンス岩崎 「糀ホールは部分名称」です。
      何か進みたい、進まなければという思いから「アドバンス」としました。


 私なりにいろいろ書きたいことがあり、<個人ホームページ>を開設しています。興味のある方はへどうぞ。
挿し絵を描いていただいたのは<虎谷さん>です。
 こんなことをスタートしてから、もう12年以上経過し、私も60代後半に突入してしまいました。この建物を切っ掛けにして、こんな変化がありました。
 1990年代の半ばから、音楽ホールをご利用いただく方は勿論ですが、変なことをやる奴が居ると言うことで行政の人々と知り合うようになりました。その後商店街の仕事もお手伝いするようになり、前任会長の急逝で2000年度から私が急に商店街の会長をやらざるを得なったのですが、知り合いの行政マンから大山街道の改善を考えないかとの話しがあり、2003年には大山街道活性化推進協議会の設立、2005年には大山街道景観形成協議会の設立などを行い、2006年よりは景観条例を溝口に実施し、周辺の建物は建てかえ時にセットバックが行われるようになりました。これらの真っ最中には癌も患いました。手前味噌ですが、糀ホールがつくった切っ掛けが、偶然にこんなことにも結び付いてきたように思います。
 いろいろ苦労は尽きませんし、私達夫婦では保たない年齢になりましたが、2003年には息子が親の老化を観ながら自主的に丁稚奉公を終えて戻ってきましたので、今は徐々に息子サポートに移行しつつあります。
 「銀行に借金を返すお金さえ回ればよい」と純粋な気持ちからホールをつくりました。妙な事をしてしまった、と思うときもあるのですが、いろいろな方々と知り合ったという何事にも変えられないものをいただき、それを支えに足腰の立つ間は頑張りたいと思っています。
                               2007.5.27