スイッチピッチャーの誕生 

2001年(3年生)

小学校3年生の一年間に、15試合に登板し、6試合完投し8勝をあげていた。

のべ40回で40個の三振を奪っていた。楽しく野球をしていた。


2002年(4年生)

しかし、成長期と重なり3年生冬、右肘軟骨炎症をおこし、鉛筆ももてぬ状態となった。スポーツ整形に通院しつつ、まる1年間投球を禁止することにした。その間、野球部の練習に出て、球拾いをした。キャッチングは右手で、返球を左手で開始。バッティングには支障がなかったので、右バッターボックスで普通に打った。代打としては、試合には出場。試合ごとに一打席に賭けた。やがて補球のみの守備としてファースト。(内野ゴロを一塁で左手で捕球、投手への返球は右手の下からであった。もし連続プレーが必要になったらまずい場面であった。)左用のグローブを購入し、ファーストを右手で捕球、左手で投手へ返球した。したがって左投げでの投補球練習を開始した。毎日毎日、家では卓球の玉やゴムまりを左手で投げる練習を開始。学校でも体育でのボール投げは依然できず、これも様子をみながら左手投げでやらざるを得なかった。


2003年(5年生)

この年、代打を唯一の楽しみとして、練習に左手投げで参加した。

そして、昨年秋の肘の怪我から12ヶ月が過ぎた頃、右肘も次第に回復したかに見えた。8月の一ヶ月間、右手でキャッチボールを開始した。秋の大会の三位決定戦で、再び登板。しかし試合後、右肘に再び違和感を覚え、痛みが走った。新人戦が始まったが、またまた左投げ右打ちとなった。レフトやライト、ファーストを左投げで守らされるようになった。バッティングでは、右打ちで快音も時折きかれた。秋、冬と練習を続け、公式戦にもレギュラー出場を果たしていた。12月に、左右兼用グローブを購入した。指が六本あるグローブで全体に重く、浅くしか入らない。満足にキャッチボールのできない選手が、なんとキャプテンに指名されてしまった。


2004年(6年生)

両用グローブは最初捕球しづらかったが、なんとか使えるようになった。左手の投球も右手の80%程度までになり、遠投もできるようになった。

内野手も左投げできるようになり、なんと左投げピッチングもできる。やがて左オーバースローでの投球も板につき、牽制でアウトもとれるようになった。

三月末には、春季大会で先発3回を左で投げた。3回を投げ四球4つは、問題を残した。

三年生秋の怪我から20ヶ月後の6月になり、右手のキャッチボールを開始。一ヶ月かけて、徐々に右手のリハビリにつとめた。7月、右手でやんわりとピッチングもできるようになった。そして、ついにピッチャーとして瀬田第一球場のマウンドに立った。スイッチピッチャーとして。

ピッチャーへの憧れを絶ち難く、さりとて右の肘へ不安もある。練習は左投げで守備の練習をし、試合では球数限定で右投げで出場。やむを得ず左投げをすることで、球拾い専門の代打男で終わらずに、腐らずに野球を続けることができた。試合での右投げをするために。

監督やコーチからは、左右のバランスが崩れるおそれもあるので、左投げは疑問といわれ、左投げは合間を見つけて練習した。諏訪第一球場でマウンドに登った時、左投げを敢行。審判団が協議の上、投球板上でのグローブ交換はしないことという注意を受けたが、スイッチピッチングは了承され試合で登板した。

2004年7月11日 瀬田球場。追い込んだ時に1球を左投すると、バッターのタイミングをはずせるのではないか?その上で右投げで勝負をしてはどうか。公式戦。迎えるバッターに2ストライク−0ボールから、監督の「左で投げてみろ!」の指示。すぐに左にスイッチして投げた。低めの球をバッターは空振り。三球三振を奪った。この試合では完投を果たし6回を投げ計70球。三振2四球2。約2年間のリハビリをのりこえた完全復活の日として、忘れることができない1シーンとなった。


 2004・7・11のナイスゲーム

俊平、サード後逸した球を深いショートから、捕ったらすぐ投げる、そしてレーザービーム。一直線の送球はファーストミットに突き刺さった。

レフトにシュート回転のワイヤーフライを背走キャッチした高坂。

完封を逃したものの、左右を取り混ぜた堂々のスイッチピッチング、志賀。