
ここではごあいさつをかねて、少し私自身の話をしてみようと思います。自分のことを書くのは恥ずかしいのですが、せっかくこのサイトにいらしていただいたあなたに、自己紹介の意味も含めて、少しだけおつきあいください。
改めて自己紹介をします。私は《クロス指導》《らせん指導》で「本当の実力」をつける指導をしている『アビット進学指導会』学院長、橋本和彦です。
大手進学教室の分教場の責任者、ドイツでの帰国子女指導、個別指導……と、もう25年もの間、のべ1000名を越えるさまざまな環境の子どもたちを教えてきました。
振り返ると、私が子どもに勉強を教えはじめたのは、大学2年生の春のことでした。塾の先生は短い時間でそれなりの給料がもらえる「割のいいバイト」だと思ったのです。
アルバイト先は大手進学教室の分教場でした。
当時、「先生」は30名ほどいましたが社員は3名。残りは大学生です。
そして私は、中学受験をしたことがある、という理由で受験をひかえた小学6年生の算数を教えることになったのです。
子どもに勉強を教えるのは生まれてはじめてのことです。
しかも、中学受験の算数は特別な解き方をする問題ばかり。
目の前の子どもに、「答えの出し方」を教えるだけで本当に精一杯でした。
「どの問題が大切か」「どうすれば応用力がつくか」などを考えて教える余裕はありません。ですから成績を上げるどころか、どんどん下がっていく始末。
子どもの真剣さとは裏腹に、授業は空回りばかりしていました。
もちろん、お父さんやお母さんの期待にこたえることもできません。
今でも、当時のことを思い出すと冷や汗が出てきます。
そんな中、あるお母さんの「ひとこと」が私の運命を大きく変えることになったのです。
「子どもがヤル気になっているんです。最後までよろしくお願いします。」
子どもがヤル気になったという喜び、最後までと信頼された責任の重み。しかし、授業はあいかわらず空回りです。成績は少しも上がっていません。

私はいたたまれない思いでいっぱいでした。
でも、何とか成績を伸ばす授業をしてあげたい。
そこで数日後、難関中学校にたくさんの合格者を出している先生の授業を見学しにいったのです。
そこで見た授業は、私の想像をはるかに超えていました。
ノウハウ・スキルは比べものになりません。
一生懸命やってはいましたが、どこかで安易に構えていた私は大きなショックを受けたのです。
「子どもを教えるというのは、こんなに大変なことなのか……」
私は授業をするのが怖くなりました。「先生をやめよう」と考えました。
「割のいいバイト」で通用するほど、甘い世界ではないと思い知らされたのです。
でも、私にはヤル気になっている子どもがいる。
お母さんからはお願いもされているのです。
簡単に裏切りたくはありません。
悔いを残したくもない。
今からでも、私が努力をすれば何とかなるのでは?…… そう思ったのです。
子どもの成績があがりそうなことは、なんでもやりました。
終電がなくなって歩いて帰ったことも、教室で徹夜してそのまま大学に行ったことも一度や二度ではありません。
私の中では、すでに「割のいいバイト」ではなくなっていました。
このような手さぐりの指導が続き、いよいよ合格発表の日を迎えました。
「橋本先生のようになりたいから、○○中に行く。」
うれしい合格を知らせてくれた子どもが、電話口の向こうで私にこう言います。
「えっ……」私は一瞬ことばにつまり、背筋に冷たいものが流れました。
この子どもは大きく伸びて第一志望校、第二志望校ともに見事合格。
第一志望は超名門私立大学の付属校。
普通なら迷わず第一志望校に進学するはずです。
にもかかわらず、急に第二志望の○○中学に進学したいと言うのです。
実は、○○中学は私の母校です。
授業中に何回か、おもしろおかしく○○中学の話しをしたことがあります。
それが「裏目」に出た? でも、お母さんからは意外な言葉をいただいたのです。
……私も驚いたんですよ。でも子どもが言うんです。
「付属校では遊んでしまう。自分をもっと鍛えたい。
大学入試にもチャレンジしてみたい」って。
それにね、いつの間にか先生の母校に行くことが夢になっていたようなんですよ……
この言葉を聞いたとき、私は一瞬、何がなんだかわからなくなりました。
「先生」としては半人前以下の、ただ懸命なだけの姿しか見ていない子どもが、まさか私のようになりたいとは……
もっとチャレンジしてみたいとは……
素直に「続けてよかった!」「努力が伝わった!」と思いました。
この手応えややりがいは何物にもかえられません。
私はそのとき、塾の先生を『天職』にして、子どもたちと一緒に歩もうと決心したのです。

1990年の春、私は帰国子女の指導のためにドイツに赴任しました。
しかし、いきなり大きなカベにぶつかりました。
当時、ドイツでは法律で夜遅くまでの授業は禁止されていて、国内の半分の時間しか授業ができなかったのです。
「途方に暮れた」というのが本心でした。
大手進学教室の教室責任者として、自信満々で子どもたちの指導にあたっていた姿がウソのようです。
どうすればいいのだろう? 見当もつきません。
でも、何とかしてよい方法を考えなければなりません。
悩んでいる余裕は少しもありません。子どもの授業は待ってはくれないからです。
そして……
『これだ! これで子どもを伸ばせる。これしかない!』
さんざん調べた末、ついにヒントを見つけたのです。
文部科学省から指導法の研究をまかされている「国立教育政策研究所」の報告書です。
そこにはいくつかの最先端の指導法と、その成果が発表されていました。
私はその中に、現在私たちが行っている《クロス指導》や《らせん指導》、《高能率指導》のもとになる、効率的で実力のつく指導法を見つけたのです。
さっそく進学教室にしかできない、いくつかのくふうを加えて指導を進めました。
その結果、それまでの半分の指導時間でも、卒塾生は早稲田高等学院・慶応志木・ICU・青山学院などの超難関私立校や、富山県・福岡県の公立トップ校に合格。
この指導法の正しさが証明されたのです。
突破口さえ見つかれば、指導法にはどんどん磨きがかかります。
翌年は一人の不合格者もなく、もっと多くの子どもが難関校に合格していきました。
こうして「本当の実力」がつく指導法が形づくられていきました。
そして、私がずっと追い求めてきた「こうすれば『必ずこうなる』と子どもに約束できる」《理想の指導》が少しずつ見えてきたのです。

ドイツに赴任して2年。大手進学教室をスタートに、帰国生という特殊な環境にある子どもの指導まで、普通の塾教師の数十年分の経験を積みました。
さらに、《理想の指導》の基礎もできてきました。
ちょうどそんな絶頂期に任期を迎えました。
それをきっかけにして帰国後、自分の塾を作りました。
96年7月のことです。
独立まではさんざん悩みました。
大手進学教室にいれば生活は安定します。
自分で塾を始めるよりも、いろいろな意味でずっとラクに決まっています。
では、なぜ独立したのかというと、ひと言でいえば《理想の指導》を極めたかったからです。私は大手進学教室や帰国生の指導で奇跡といってもよい合格を勝ち取ってきました。
でも、まだやってみたいことがたくさんあったのです。
それに、私の夢である「『こうすれば必ずこうなる』と子どもに約束できる」《理想の指導》がおぼろげにも見えてきたのです。
しかも、この新しい指導法は、子どもの勉強を大きく変える切り札になるに違いないのです。
だから、
「大手進学教室に戻ったら、一生後悔する。」
そう思ったのです。
というのも、大手進学教室にいると、私のような現場責任者でも、一日のかなりの時間を組織の運営や生徒募集の営業管理に費やします。
《理想の指導》を追求する余裕など、とてもありません。
また《理想の指導》は、普通の指導に比べて人件費がかさみます。
そうなると大手進学教室の利益にはなりません。
ですから、大手進学教室にいたのでは《理想の指導》が決して実現できないこともわかっていました。
そうなると、自分の手で《理想の指導》を作りあげるしかありません。
そして最初に、個別指導の塾を立ちあげました。
もう一度、一教師として一人ひとりの子どもの勉強を見つめることで、誰にも負けない経験をすることに専念したのです。
その結果わずか1年半ほどで、子どもたちは成績を大きく伸ばし、次々に難関校を突破するようになりました。
ドイツでの《理想の指導》は、国内の子どもたちもきちんと伸ばせたのです。
これは大きな自信になりました。
ほどなく心ある先生が集まり、少しずつ、でも確実に《理想の指導》が広がっていきました。
そして6年後、難関校への進学指導に目的を絞った『本物の進学教室』アビット進学指導会が誕生したのです。
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