モスクワといえば、私にとって悔しい思いばかりが残る大会です。日本が参加できないということは、ただ純粋にオリンピックを楽しみにしていた子供にとっては、かなりショックな出来事でした。だって、日本選手がだれもその場にいない…なんて考えたこともなかったのですから。ことの起こりは、ソビエト連邦によるアフガニスタンへの侵攻でした。それに抗議する意味で、アメリカが「侵攻をやめなければ五輪をボイコットする」と声を上げたのです。そして、ほかの西側諸国にも同調するよう、強烈に働きかけてきたのでした。 不穏なものを感じました。それでも私は、本当に日本がオリンピックに参加しないなんて、まだ信じてはいなかったのです。 当時は、出ていれば金メダルは確実は確実といわれていたマラソンの瀬古敏彦選手がいました。バレーボールや男子体操などもまだまだ強く、充分期待が持てました。もちろん柔道は、今よりもっと「金独占」の色合いが濃い競技でした。それなのに日本は、結局はボイコットを決めてしまったのです。 当時の関係者のなかには、「泳いでもモスクワに行かせたい」と発言した人もいました。私も、なんとかして行ってほしかった…。でも、ついにその願いは、かなえられることはなかったのです。 今となってみれば、ソビエトの犯した罪は大きかったといえるでしょう。結局はその行為が、2001年9月に結びついてくることになったのですから…。西側諸国が抗議行動に出たのも、無理はなかったのです。でも、当時の私には、そんな深い意味などわかるはずもなかったのでした。 最後までソビエトは、アフガン侵攻から手を引こうとはしませんでした。多数の不参加をものともせず、オリンピックは開催されました。ただ、西側でも国家の意向に反して出場を決めた国もありました。開会式を見ながら、私は「なぜ日本もそうできなかったんだろう」と、この期に及んでウジウジと考えていました。 そういう国々は、開会式で国旗ではなく五輪旗を持って行進していました。そして、そんな旗を掲げた国が出てくるたび、テレビカメラがそれを映すのをきらって、ブレジネフ書記長(ご存じない若い方のために…。当時のソビエト共産党書記長で、同国の最高権力者でした)の顔ばかりとらえていたのを鮮明に覚えています。 日本の姿がなくても、いちおう競技は見ていました。この大会の出場者で、私が資料を見ないでも挙げられる唯一の人物、ルーマニアのナディア・コマネチ選手の演技だけは楽しみにしていたからです。ただ、それも期待していた結果には終わりませんでしたけど…。 それにしても、まさに冷戦の象徴のような大会でした。しかもそれは、次のロサンゼルスにまで影響を及ぼすことになってしまったのでした。 |
|
| 第22回 第23回 第24回 第25回 第26回 第27回 トップページ>夏の競技−なつかしのオリンピック>第22回モスクワ大会 |