「キリスト教信仰が大切にしている事」

ヨハネによる福音書3:16

 

3:16 神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。


おはようございます。
今月はこの早朝礼拝において5回にわたって、「神を信じる」ということを中心テーマにして、ご一緒に考えていきたいと願っているのであります。
毎週違った角度から、神様を信じるとはどういうことかということを、それぞれの先生方が語ってくださいますので、どうぞ期待しつつ、早朝礼拝に参加してくださればと思っております。

 そこで、今日私は、神を信じるというテーマの中で、特に「キリスト教信仰が大切にしている事」ということについて、ごく簡単ではありますけれども、ご一緒に考えたいと思っているわけであります。

 さて、もうだいぶ昔の話のようでありますけれども、2年ほどまえの、5月15日にですね。当時の森総理の「日本の国は、まさに天皇を中心としている神の国であるぞということを国民の皆さんにしっかりと承知をして戴く」というような発言をめぐって、いろいろもめたことがございますね。

 この発言の是非は、とりあえず今日は問題にいたしませんけれども、これをきっかけにして、「日本が神の国とはどういうことか」という議論が盛り上がりました。いったい日本人の宗教や宗教観とはなんであろうかということを、改めて考えさせられた発言だったのではないかと思うわけであります。

しかし、そうは申しましても、実際、なかなか日本人の宗教観というものは捕らえにくいものですね。たとえば、世論調査でも、「あなたは何か信仰を持っていますか」と聞いたときに、「はい○○です」と答える人は非常に少ないそうですね。反対に「いいえ特にありません」と答える人が圧倒的に多いわけであります。それじゃあ、そういう人は無信仰なのかというと、そうでもなくて、「信仰心や宗教心は大事だと思う」ひとが、世論調査で半数を超えるということであります。要するに、特定の宗教は持っていないけれども、何かの信仰心は必要だと考えている人が沢山いるということなのであります。

「特定の宗教は持っていないけれども、信仰する心は大切だ」これが大まかにみたときの日本人の宗教意識ではないでしょうか。

日本人にとって、信仰を持つということは、なにか教祖がいて経典があって、教団に所属してというような、そういう既成宗教を信じるということではなくて、正月には初詣に行くし、お墓参りも大切にするというような、そんな先祖を大切にする心、そういう心を信仰心をいっているわけですね。何か大それた宗教行為として初詣をしているわけでもなく、お盆を守っているわけでもお墓参りをしているわけでもなくて、先祖を敬うという当たり前のことを、当たり前にしているだけだというわけであります。しかし、それも外国の人から見れば、初詣も墓参りも、明らかに宗教行為にみえるわけですから、私は無宗教だといっている日本人の自意識と、やっていることのギャップがあって、なにか日本人の宗教観というのはわかりづらいということになるのではないでしょうか。

 宗教学の専門家に言わせるならば、日本人が普段やっているような、神社にいけば手をあわせ、法事には田舎に帰り、クリスマスには教会の門をくぐるというような、一人の人が複数の信仰をもつことを、多層信仰というそうであります。この多層信仰というものが、日本人の宗教観の特徴だそうであります。たしかに、一つの宗教に凝り固まるよりも、色々な宗教に顔を突っ込んで平気なところがありますね。学者に言わせれば、普通、多神教といわれる国でも、たいていは、一人の人が信じる神様は、一つの神様なんですけれども、日本人は、沢山の神様や仏様を同時に信仰して、矛盾を感じないという宗教観は、とても特徴的だそうであります。これを、多層信仰というわけですね。

「鰯の頭も信心から」ということわざがありますけれども、これは、まさにこういう多層信仰といわれる日本人の信仰観をよく表した言葉であります。ようするに、多層信仰とは、信仰の対象は問わない信仰であります。鰯でも何でもいいわけであります。八百万(やおよろず)の神に対する信仰ということも、よくいわれますけれども、八百万の神様を信じるという信仰は、それこそ石ころにさえも、神様が宿っているという信仰でありますから、要するに、信仰の対象にはこだわらない、そういう信仰形態だということであります。鰯の頭であっても石ころでもなんでもいい。何を信じるのかということが重要なのではなくて、それを拝む人の、心、心情こそが大切にされる。それが多層信仰の本質でしょう。神仏を拝む心。その心情こそ大切である。ゆえに、信じる対象は、それほど問題とされない。それどころか、信仰の対象はいくつあってもかまわない。沢山信仰の対象があればあったで、信仰深いということにさえなるわけであります。

百人一首の歌人で有名な、西行(さいぎょう)法師が伊勢神宮を詣でたときに歌った。
「何ごとのおはしますかは知らねども、かたじけなさに涙こぼるる」という歌は大変有名ですけれども、何がそこにいるのかはわからないけれども、なんともかたじけなくて、涙してしまうという心。宗教的な心情を日本人は、とても大切に考えてきたと思われるのであります。神仏を尊ぶという心。先祖を敬う敬虔な心、その心情こそ、日本人の宗教観の中心にあるのではないでしょうか。

それに対して、キリスト教の信仰は、唯一の神を信じる排他的な信仰だと考えられることが多いようです。


「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない」出エジプト20:3

という言葉が聖書の中にあるわけですけれども、「私のほかには神はいない」という聖書の主張は、日本人にはなにか排他的な不寛容な神のように思われることも多々あるのかもしれません。

しかし、ここで注目したいのは、唯一の神を信じるキリスト教信仰が日本人の信仰に比べて、排他的だとか不寛容だとかいう、そういうことではなくて、キリスト教信仰が大切にしていることなのであります。つまり、キリスト教の信仰が大切にしているのは、宗教心とか、心情ではなくて、信仰の対象そのものなのだということなのであります。

キリスト教信仰と日本人の宗教観の大きな違いはまさにそこにあるのであります。キリスト教信仰は日本人的な信じる心とか、宗教的な心情ということが信仰の中心ではありませんで、何を信じているのかというその信仰の対象こそ、信仰の中心なのであります。何を信じ、心がどこに向かっているのかという、その心の方向性こそが、キリスト教信仰では大切にされるのであります。

 昔、宗教改革というものがあって、その宗教改革者で有名なカルバンという人が、キリスト教信仰を、たとえまして、信仰とは管(くだ)のようなものだといいました。管それ自体はなんの中身もない空しいものですね。しかし、その管を水源につなぐことで、水がこちらまで流れてくる。管そのものは空しいものでありますけれども、それがよきものにつながっているなら、よきものがその管を通して流れてくる。それが信仰だといいました。そういう意味からいいますと、日本人の信仰といいますのは、どこか、その管を一生懸命磨いているだけという気がいたします。その管がどこに向いていようが、どこにつながっていようが、それは大した問題ではない。それよりも、その管を一生懸命磨くことこそ、人生において大切なことだと考えておられるように思われるわけであります。

 しかし、信仰が管であるならば、管などは、別に古かろうがなんだろうがいいわけであります。管自体を一生懸命磨いからかといって、管からは何もいいものは出てきません。管を水源につなげなければ、水は出てこない。大事なのは、その管がどこにつながろうとしているのかという、管の向けられている方向ではないでしょうか。キリスト教信仰がまさに大切にしているのは、その信仰の方向性なのであります。私たちの心がどこに向かっているのか、何を求めているのか、どこにつながろうとしているのか、ということこそキリスト教信仰は大切な事としてこだわっているのであります。ですから、キリスト教の信仰は、単なる心や心情の問題をこえて、管を水源につなぐことによって流れてくる水をのみ、命に潤いをいただいていくダイナミックな信仰であります。信仰を通して、神様とつながり、神様の恵み、そして神様の愛を味わっていく人生を生きる。それこそ、キリスト教信仰の核心なのであります。信仰という管を通して、神様から命の水、神様の愛をいただき、そして、神様が導く新しい人生に歩き出していく、そういうダイナミックなものであります。

 去年「親分はイエス様」という映画が上映されたのですけれども、これは元やくざの方々がですね、信仰を持って、それまでの生活を改めて、キリスト教の伝道者になっていったという実話に基づいたお話を映画にしたものでありました。現代でも、こんなことが起こるわけであります。単なる心の満足、宗教的心情を満足させるのがキリスト教信仰ではなく、心を神様に向けることによって、新しい人生に歩き出していくという、大変ダイナミックな力を持つのがキリスト教信仰であります。


 では、なぜキリスト教信仰にはそのようなダイナミックな力があるのでしょうか。それは、キリスト教信仰とは、単に神様の存在を信じる信仰ではなく、神様の人格を信じる信仰だから、ダイナミックな信仰なのであります。

 誰かに「あなたはUFOを信じますか」とか「ゆうれいを信じますか」と聞かれますならば、その意味は、UFOなりゆうれいなりが、存在していると思いますか、思いませんかという意味でありますね。UFOがいるのかいないのか、ゆうれいがいるのかいないのか。存在するのかしないのかということが問題になっている質問なのであります。おそらく「神様を信じますか」と質問されたとしても、多くの人々にとって、それは、神様の存在を信じますか、信じませんか、神様はいるのですかいないのですかという意味で受け止められるでしょう。
 しかし、キリスト教信仰において「神を信じる」というときには、それは、神様の存在を信じるという、そういう意味ではないのであります。クリスチャンの人が、神様を信じているというのは、それは、単に神様の存在を信じるということを超えて、神様というお方の人格を信じているという意味なのであります。
 たとえれば、人と人との関係を人格関係というわけですけれども、わたしが友達を信じるというとき、それは友達の存在を信じているわけではなくて、友達の語る言葉や約束を信じるわけであります。友人と5時に待ち合わせをしたとするなら、きっと友人は、その時間に現れると信じて、約束の場所に行くわけであります。友人の語った言葉と約束を信じる。それが人と人との関係において、お互いを信じる、信頼するということです。
 キリスト教信仰で神様を信じるということは、まさにそういうことなのであります。神を信じるとは、単に神様の存在を信じますということではありません。そうではなく、神様の人格を信じる。聖書を通して語ってくださった、その言葉と約束を信じる。それがキリスト教信仰で神様を信じるということの意味であります。

 私には1歳4ヶ月になる子どもがいますけれども、たまに公園に遊びに行きます。滑り台にのりますね。でも、始めは子どもは怖いから降りてくることができないわけであります。そこで、下にいて「大丈夫だよ、パパが下にいるから降りておいで」と手を広げて上げると安心して降りてくる。ここでパパを信頼する子どもとパパの関係。それがキリスト教信仰における、神を信じるということの意味であります。

 もうなくなられましたが、青森県出身の作家で、北畠八穂(キタバタケヤホ 1903-82)という方がいらっしゃいました。この方のお母様は、クリスチャンだったのですが、五十代中頃からパーキンソン病で苦しまれて、長く、寝たきりになっておられたそうであります。パーキンソン病とはだんだん筋肉がこわばっていく病気だそうですね。心臓への締め付けがひどくて苦しくなってきた姿を見て、子どもたちは相談して、わらをもすがる思いで、病をいやすとうわさの、新興宗教のリーダーに来てもらったそうであります。そして、お母様に、「私たちを安心させると思って、この信仰に、ひとときでも入ってためしてみたら」と子どもたちは熱心にすすめたそうですね。子どもたちにしてみたら、キリスト教の神は、何にもしてくれない神様に見えたのかもしれません。そんな神様より、病をいやしてくれる神様にすがってほしい。そういう気持ちだったのでしょうか。
しかし、お母様は、そんな子どもたちにほほえみながら
「ありがとう、でも、私は、私の神のおぼしめしのままになりますよ」と静かに語ったそうであります。その言葉に娘の北畠さんは、「まるでするどいイナズマに打ちのめされたようだった。」と語っておられました。『これが母の信仰』かと、恐れとともに、その神にゆだねる姿に、感動すらおぼえたそうであります。

 キリスト教信仰とは、単なる心のあり方や状態のことではありませんし、また何かご利益を期待するというものでもありません。どんな信仰を持っておりましても、だからといって人生が楽になるというものではありません。人生はやはり厳しいのであります。しかし、キリスト教信仰は、そんな厳しい現実から逃げ出すのではなく、子どもが親を信頼して滑り台から降りていくように、神様の愛の真実に信頼し、自分の人生を生きていく勇気と力を与える信仰なのであります。

先ほど読んだ聖書の箇所は、聖書の中の聖書といわれる箇所であります。ここにおいて、神様の愛がはっきりと表されています。

3:16 神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。

 神様が私たちを愛して、私たちの罪の身代わりとして一人子イエスキリストを十字架につけてくださった。そして滅びることのない永遠の命を与えてくださった。この聖書に語られている神様の愛の真実。そしてその言葉と約束を信じ、ゆだねて生きる。そこにキリスト教信仰の本質があるのであります。

 私たちはみんな、それぞれの人生の滑り台の上で、おびえつつ、行きつ戻りつしている存在ではないでしょうか。そんな人生という滑り台の上でおびえている私たちに、「大丈夫だよ、私がついているから滑ってごらん」と、この人生を生きぬいていく力と励ましを与えるために、滑り台の下で待っているだけでなく、一緒に滑り台を滑っていてくださる。そんな私たちと共にいてくださるお方こそ、聖書の神様であると約束されているのです。この神様に信頼していきるダイナミックで豊かな人生をいきる。それこそ、キリスト教信仰の本質なのであります。

今月はこの神様を信じることの素晴らしさを毎週それぞれの教師の方が語ってくださいます。どうぞこの神様を信じる信仰の素晴らしさを知っていただいて、神を信じる人生を歩んでいただきたいと願っているのであります。

2002年6月3日早朝礼拝

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